孫呉の秋★物語!
<1>〜<5>
 
 
 
 

 

 花咲き、緑萌える南の国。孫呉の四季はあざやかに移り変わる。

 今は初秋。濃い緑が徐々に、木の色に同化し、土の香りの強くなる季節.....穏やかで静かなこの季節。

 それでも事件は発生する。だからこそ、孫呉の国ともいえ、また、そうでなくては孫呉といえない。妙なノリのある江東の国のお話である。

 それはそれはあたたかな昼下がりのことであった。

 まずはこちら、建業にある居城の講堂である。目鼻立ちのととのった小柄な軍師殿は、とある人物をさがしていた。

「甘将軍、甘将軍、どちらですか?」

 きょろきょろとあたりを見回す瞳は、大きなアーモンド型で、茶味がかかって美しい。どことなく猫の双眸を思わせる。

 彼は陸遜。孫呉の明日を担う若き俊英で、今は周瑜の後を継ぎ、軍師の首座に居る。

「甘将軍.....

 講堂の隅っこ。壁にもたれるようにして、目当ての人物がうずくまっている。よく見れば、なにやら熱心に読んでいるようだ。

「あの.....甘将軍?」

...............

「甘将軍!」

「え、うわっ!わわわわ! は、伯言っ!」

「なにもそんなに驚かなくても。さきほどの蜀との交渉の件で、ちょっと.....

「え、あ、な、なに? さっきの件って?」

 あたふたと甘寧は、手にした本を背後にかくした。

「もちろん、荊州経営の話ですよ。来週末には、蜀の使節が来訪されるでしょう。そのときのことですが.....

「お、おう! そーだったな! そんで魏がいつ来んだって?」

...............

「え?え?」

.....甘将軍、その後ろに隠したものはなんですか?」

 陸遜の声がすっと冷めた。

「い、いや、ただの兵法書.....

「よく言いますね。 以前、あれほど孫子の兵法書をすすめたときには、表紙もまともに見なかったくせに!」

「い.....いや〜、オレ、最近、兵法に目覚めちまって.....

「ウソおっしゃい!」

 陸遜は、サッと甘寧の背後に回り込むと、後ろ手に隠した「それ」を奪い取った。

「うぎゃーっ!」

「重要な会議の内容も聞かずに、いったい何を読んでいたというのですっ?」

 そういうと、陸遜はパラパラと頁をめくった。もちろん、この時代の読み物は「パラパラとページをめくる」ような代物ではないが、そこは時代考証無視のギャグ小説ということでお許し願いたい。

....................

 ものすごいスピードで、陸遜の目が文字を辿った。

....................

..........あ、あの.....

....................!」

.....あ、あの、伯言?」

「〜〜〜〜〜〜っ!」

「は、伯言.....

 徐々に柳眉がつり上がってゆく。そのさまを横目に、甘寧はすぐさま逃げの打てる体勢をとった。

「な、なぁ.....伯言。単なる物語本なんだから.....

「な、なんですか、これはーっ!」

「きゃーっ!」

 陸遜の剣幕に、甘寧は高い声を上げてすっ飛び上がった。

「ああ、耳鳴りがする.....動悸もひどく.....私は酸欠状態ですっ!」

「お、おい、伯言.....そんな、おおげさな.....

「眩暈がします.....頭もガンガンいってる.....な、なんて破廉恥な!」

「あ、あの.....

「興覇ッ! この本はいったいどうなさったのです!」

「そ.....それはまぁ、なんだ.....

「いったいどこで入手したのですかっ! こんなあからさまな男色本.....しかも登場人物が我々、孫家に仕える文官武官というのはどういうことですッ!」

「いや、どういうことっていわれても.....

「しかも.....こ、この私が.....この私が周大都督相手に.....こんな淫売婦のような.....

「まーまー。でも、おまえと周瑜殿なら、なんかキレイっぽいじゃん。ほら、ユリみたいで。エロシーンもそんなにドギツクはないだろ?」

「いーかげんにしなさーいっ!」

 陸遜は、小冊子をぐしゃりとにぎりつぶし、いきり立った。

「あわあわ、本がーっ! それ次、太史慈なんだよーっ!」

「あ、あなた方は、こんな破廉恥なモノを回し読みしているのですかっ?  万一、これが周大都督の目に入るようなことがあれば.....

「あ、周瑜くんは全然平気だと思う」

.....ああ、それもそうですね。.....じゃなくてーっ! 私は平静ではいられませんっ!この本は没収します!」

 陸遜はビシリと言った。

「そ、そんなぁ〜。たのむよ〜、返してくれよ〜、伯言〜。オレまだ半分しか.....

「興覇ッ! あ、あなたは平気なのですかっ? いかに読本の中とはいえ、この私が周瑜殿と.....あ、あんな.....あんなこと.....

「いやまぁ、相手が太史慈や呂蒙だの、クソむさくるしい野郎共だったら、ムカツクけどな〜。周瑜くんじゃあなぁ〜」

「ええ、それもそう.....ではなくってーっ! とにかく、この本は処分いたします! 出所を調べて取り締まらねば!」

「あああ〜、それ新刊なのに〜。次の版本がいつでるのかさえもわからないのに〜]

 甘寧は取りすがった。陸遜の眉がますますつり上がる。

「版本? 今、版本とおっしゃいましたかっ?」

「あわわわわっ!」

「バ、バカな.....それでは簡単に重版できてしまうではありませんか.....! 巷にこのようないかがわしい冊子が流布するようになっては.....

「ってゆーか、オレ、街中でゲットしたんだけど? 確か太史慈たちも市場でって.....

 能天気に述べる甘寧に、陸遜はわなわなと身をふるわせた。

「あ.....伯言? 怒っちゃった? ま、ほら、ただの春本だからさ。そう気にしないで.....

.....一計を案じます」

 そう言うと、陸遜はすぐさまきびすを返した。甘寧は後を追って声を掛けようとしたが、ゆらりと冷たい気の立ち上る陸遜の背は、すべてのものを拒絶していた。

 

「ええええ〜っ! 軍師殿に没収された〜っ? このドジ、マヌケ! 根性無し! ソーロー!」

 考えつくばかりの悪口雑言で、甘寧を罵ったのは他ならぬ太史慈であった。

「わりーわりー。まさかとられちまうとは思わなくてよ〜」

「あれを入手するのに、どれだけ時間がかかったと思っておるのだ! このバカモノが! あ〜、やはり先に甘寧に貸すべきではなかったのだ! このわしのやさしさが腹立たしいわい!」

「お、おい、なにもそこまで言わんでも、太史慈よ」

 心やさしき呂蒙がとりなした。

「呂蒙! そんなのんびりしたことを言っておれるのか! 没収された本はおぬしもまだ読んでおらぬヤツだぞ!」

「なに! むむ、それはもしや.....

「周瑜くんシリーズ第三巻、『昼下がりの殿堂』じゃ!」

「な、な、な、なに〜っ! 甘寧、きさまーっ!」

 剣を抜くいきおいの呂蒙を、今度は太史慈が止めに入る番であった。

 

 さて遅まきながら説明しよう。

 中国大陸、東南の国。後漢の終末期、その土地は孫呉の国と呼ばれた。世に名高い三国の時代である。

 孫呉は、孫文台を始祖とし、今は若き三代目の王、孫権を戴いている。短い期間に三度も王が替わるという悲劇にも屈することなく、赤壁においては、大国曹魏を退けた。

 そして今や国力も充実し、長江の南に絶大なる覇を唱えるに至ったのである。時同じくして、荊州の南四郡を手に入れ、確実に勢力を伸ばしつつあるのが劉備であった。赤壁の報復を懸念し、対魏戦線を意識した孫呉のとった計略は、孫権の妹、孫尚香を劉備に妻合せることであった。その話が成立すれば、劉備は孫権の義弟となる。

 そして今、蜀より建業への、来訪の報が届いた。群臣来訪の表向きの名目は平和交渉。その実は孫呉よりの申し出、つまり劉備の正妻として、孫尚香を受け入れるか否かの断を下しにやってくるのだ。軍師陸遜としては、ここ一番、なにがなんでも蜀の使節に可と言わせねばならない。

 ただでさえ、ぴりぴりと気を張りつめているのに、物の道理を解さない能天気武将どもが、彼の繊細な神経を逆なでするのであった。

「はぁ.....

 陸遜は大きくため息をついた。それはがらんとした回廊で、思いのほか響いたらしい。遠慮がちな、だがおっとりとした声が陸遜を呼び止めた。

「これは軍師殿、なんぞお悩みでございますかな」

「魯粛殿.....

 『中年』を絵に描いたような、おっとりとした人物。やや小太りで、たぬきを彷彿する風体である。彼は魯粛、字を子敬という。三国志の正史においては、周瑜に亡き後を託された名軍師であるが、このお笑い小説の中ではさえないおじさんにされてしまうのだ。

「おやおや、お顔の色が優れませんねぇ」

「あ.....いえ、だいじょうぶです」

「初秋に入ったと申しますが、ここ最近、日中の日差しは変わらず強うございますからね。しかし日が落ち始めるととたんに気温が下がる.....年寄りには応えますのう」

 もともと細い目が、さらにまぶしげに細められ、魯粛は外を見遣った。

.....ときに、陸遜殿、蜀の面々のご来訪の期日が近づきましたの」

「え、ええ.....

「ふむふむ。もう次の週の末でござったか」

「そうです。未だ市中の整備も整いませんのに。飢民には食を与え、一日も早く仕事を.....

「ほっほっ.....そう簡単にはいきますまいて。皆が皆、軍師殿のように几帳面で真面目な人間ではございませんからの。のんべんだらりとその日を暮らすのも、また楽しからずや.....

「魯粛殿! そのようなことを言われては困ります。平時には内政をととのえるのは、我らが役目。厳しく取り締まらねば!」

「ほ? 飢民、流民のたぐいをでございますか?」

.....い、いえ、そうではなく.....それ以外にも問題は山積みだと思われます。.....失敬!視察に出て参りますので」

 一方的に話を打ち切ると、陸遜はすぐさま自室に向かってきびすを返した。もときた回廊を、ぐるりと逆まわりに行く。石畳の中庭を突っ切れば早いのだが、陸遜の律義さはこんなところでも発揮されるのだ。

 ゆるりと弧を描く長い長い回廊を、陸遜は早足ですすんだ。ふと、彼の足が止まった。中庭の木陰に人影を認めたからだ。

「周瑜殿.....

 陸遜はあからさまにうんざりと、その名をつぶやいた。

 周瑜、字を公瑾。かの赤壁の大戦においては、孫呉の水兵十万で、曹魏の八十万を退けた、呉の誇る大軍師である。すでに亡き二代目の君主、孫策とは義兄弟の契りを結ぶほどに親密で、その後を継いで帝位に就いた孫権も、彼を実の兄のように慕っていた。

 こういうとたいそう権高そうな人物を思い描くであろうが、野良猫の親子と一緒に、樫の木の根元で寝コケる周瑜くんは、そのイメージとはほど遠いキャラクターであった。

「周大都督殿! お目を覚ましてください!」

「ん〜〜」

「こんなところで眠っては風邪をひきますよ!」

「む〜〜〜」

「周瑜殿!」

「ふみゅ〜」

 周瑜くんより先に、猫たちの方が目を覚した。

「君たちはそのままでけっこうです!周瑜殿、周瑜殿!」

「んん〜〜、だぁれ?」

「周瑜殿!」

「なぁんだ、りくそん。どうしたの〜」

.....どうしたのって.....

「あれ〜、みんな、早いねぇ」

 周瑜くんは野良猫の親子に声をかけた。

「周瑜殿.....お休みになられるのなら、自室にお戻りください。まだ暑い日が続くとはいえ、陽が落ちれば涼しくなります。もう秋なのですからね」

「んー、ごめんなさい。でもねぇ、この子たちと遊んでいたら、急に眠くなっちゃって」

 周瑜くんは抱き上げた母猫に、小首をかしげて微笑んだ。トラ猫は返事をするように、「みゃー」と鳴いた。

「髪に木の葉がついていますよ。きちんと猫の毛をとってから、中にお入りください」

「はいはい」

「大都督殿は、丈夫な体質ではないのですから」

「はーい、はいはい」

「はいはひとつでけっこうです」

 陸遜はぴしりと言った。

「りくそんが怒るからもう行くね〜。じゃあね、ポチ、タマ、ネギ」

 周瑜くんは子猫三匹にあいさつをすると、母猫を抱き上げて、「また明日ね」といって額に口づけた。茶のトラ縞は「にゃー」と鳴いて、周瑜くんに別れを告げた。

.....お部屋までお送りいたします、周瑜殿」

「いーよー。ひとりで帰れるもの。女の子じゃあるまいし」

「ある意味、女性より心配です。.....さ、この後、私はまだ予定があるのです。はやく参りましょう」

 未だにぐずぐずと手いたずらをしている周瑜くんを、陸遜はせかした。

「え、りくそん、どっか行くの?」

「え? ええ、ちょっと.....

「どこに行くの〜」

「街まで.....用があるのです」

「いーなー。私も一緒に行きたーい」

 案の定、周瑜くんはそう言った。

「いえ、もう夕暮れどきになりますし、私ひとりで大丈夫ですから」

「行きたいの。ほしいもの、あるの」

「周大都督.....買い物に行くわけではないのですよ。視察です」

「視察〜?」

 周瑜くんはもう一度、小首をかしげた。本当に細い首である。しかしそののんびりとした問い掛けは、陸遜のいらいらをいっそうあおった。

「大都督殿! 来週末には、内々に蜀の貴人がお見えになられるのですよ!尚香殿を劉備の正妻にするということ.....つまり劉備を我が殿の義弟にすることは、今後の外交において非常に重要なのです! 周大都督殿ならば、十二分におわかりでございましょう!」

「う.....ん。荊州に行かれてから、劉備殿のお力はとても強くなられたからねぇ」

.....赤壁での戦勝は我らが孫呉の力のみです。.....にもかかわらず火事場泥棒のように荊州の四郡を手に入れた男.....不快ですが、今は敵に回すよりも味方につけたほうがいい。.....孫呉のためです」

「うん.....尚香殿、おヨメさんに行って幸せになれるかなぁ」

.....それは.....

 陸遜は言葉に詰まった。

 一国の王女として生まれたからには、この乱世において政治に利用されるのはあたりまえのことだ。

「それは.....

「陸遜は、たぶん劉備殿のことキライだろうけど.....

 周瑜くんは詩でも詠むようにささやいた。

「あの人、そんなにヤな人じゃないと思うよ。とっても真面目そうな人。そして大きな人ね。尚香殿とはお年が離れている分、大切にしてくださるんじゃないかなぁ」

...............

「尚香殿はいい娘だからね。幸せになって欲しいねぇ」

「え、ええ」

 陸遜は頷いた。やはり陸遜は周瑜くんが苦手だった。同じ軍師という立場にありながら、おのれとはまるきり正反対の周瑜くん。なにもかも.....国の存亡にすら興味がなさそうなのに、ひとりの女性の気持ちを思いやれる周瑜くん。

 そんな彼を見ていると、これまで築き上げてきた、軍師という自己の存在が、足元から揺らぐ気がしてならないのだ。

「どーしたの〜、急にだまりこんじゃって」

 高い位置からのぞき込まれ、陸遜はハッと顔を上げた。

「あ.....いえ、なんでも.....

「ねー、りくそん。街に行くんでしょ。はやく行こうよ」

「え、ええ.....周瑜殿、本当にご一緒に行かれるおつもりですか?」

「うん! あ.....それともりくそん、私と一緒はイヤ?」

 柳眉をひそめて、悲しげにたずねられては、まさか「はい」とはいえない。陸遜は周瑜くんを苦手ではあったが、決して嫌いではなかったし、なにより軍師としては尊敬する大先輩なのである。

「い、いえ、とんでもない。ただもう日が落ちていきますし、今は寒暖の差が大きい季節ですから」

「うん。じゃぁ、上着とってくる。おもてで待ちあわせ」

.....はい、わかりました」

 とうとう陸遜は観念した。

 さて、とかく三国志においては、判官びいきの好む蜀の国。それと相対する大国曹魏。この両国がクローズアップされ、江東の孫呉は地味なイメージをぬぐいきれない。

 しかし三国の中で、もっとも長命であったのは、呉の国である。それはとりもなおさず孫呉という国がめぐまれた土地柄であったということ、それに加え内政が安定していたといえるのではなかろうか。そして今、先の赤壁の戦勝を受けて、ここ建業の都は沸き上がっていた。

 

「わー、りくそーん」

.....今度はなんです?」

「ヒヨコだよ、ヒ・ヨ・コ★ かわいいねぇ、欲しいなぁ」

「そんなもの、買っていってどうなさるんです」

「タマたちのお友だちになってくれるんじゃないかしら」

「猫はヒヨコを食べますよ」

 陸遜はため息交じりにそう言った。

「もう、ひどいこと言わないでよ、りくそん」

「事実です」

「あっ! ねぇねぇ、りくそん! あのお店のお洋服見て〜」

.....周瑜殿。私たちは視察にやってきたのですよ? 服の物色をしに来たわけではないのです」

「いいじゃない。ちょっとだけ〜。ほら、見て〜。これきっと陸遜に似あうよ」

 ふるぼけた、備え付けの鏡の前に連行され、陸遜はむりに服をあてがわれた。

 臙色にシルクの深緑で刺繍がなされた上下のそろいだ。なるほど周瑜くんのセンスはいいらしい。

 確かにそれは平服とはいえ、気品があり、やや幼く見える陸遜を大人びて見せた。

「ね、ね、似あうでしょう?」

「あ、はぁ.....

「りくそん、かっこいい。とっても素敵だよ〜」

「じゃ、買おうかな.....

 根は素直な陸遜であった。

「あー、これー、キレイー。自分で買っちゃおー」

 周瑜くんは桃色の貫頭衣を手に取った。立て襟でその部分に梅花の縫い取りが施してあり、袖口にも華やかな装飾がなされている。そろいの帯は長めのこしらえで、ちょう結びにしても膝の辺りまで飾り房がとどきそうであった。

「ね、どうかな、りくそん?」

「え.....はぁ、大都督殿はお綺麗ですから、どのようなお召し物も似合いますよ」

「うん、そうだねー」

 周瑜くんはあたりまえのように頷いた。

「じゃ、買っちゃおー」

「はいはい。それを買ったら、そろそろ城に戻りましょう。見るべきところは、ざっと見たと思います」

「えー、もう?」

「はい。まずは衛生面。とりあえず大通りでの汚物処理の問題はないようです。まぁ、商売にも影響がありますので、触書を守り互いに気をつけているところでありましょう。ただし、精肉関係と蓆売りなどが混在しているのはどうにも見場がよくありません。なるべく同業者ごとにまとまって店を出して欲しいところですが.....使節団が来所するまでに検討しておくことにいたしましょう。それから.....

「りくそん.....私が「もう」って言ったのは、もうお洋服もお菓子も見に行かないの?って言いたかったのー」

 周瑜くんは困ったようにつぶやいた。陸遜はおのれの大演説に赤面し、そのあとですぐさまのんびり周瑜くんに腹を立てた。

「周大都督殿! 今は服だの、菓子だのと言っている場合ではないでしょう! よろしいですかっ?いわば来週やってくる使節は仮想敵国の使いなのです! 我が国としてはなんとしてでも有利な条件で.....

「あっ、待って陸遜! 本屋さん!」

 もはや年少の軍師殿は何も言う気にはなれなかった。まだまだ周瑜くんという人物を理解しきれていないのだろう。

「りくそん! ほら、君も見たいでしょう? 最近、建業の市にも冊子売りさんがお店を出すようになったんだよ。これってすごいコトだと思わない?」

「え.....あ、は、はぁ.....

「書物ってね、今までは特権階級のものだったじゃない。兵法書なんかだけじゃなく、歌集も読本なんかも、みんな恵まれた人たちだけのものだった」

 周瑜くんはうすい冊子の頁をめくりながらささやいた。

「でも、こうして写本や版本なんてものが、市場に出回るようになったんだよね。ごく普通の人たちの手にもわたるようになった。これって素敵なコトだよ」

「そう.....ですね」

「うん。とってもとってもね、いいことだよ」

 釈然としない顔付きの陸遜に、周瑜くんは力強く頷いた。

.....字など.....読めない者のほうが多いでしょうに」

「うん。まだまだそうだよね。でも今は庶民の出自でも学ぶことができるし、ご老人が寺子屋のようなものを開いているそうだよ。やっぱり、この国はいいね。孫権様はまちがっていらっしゃらないよ」

 周瑜くんは柔らかく微笑んだ。

「あっ、この本ください!」

 周瑜くんが言った。

「おや、買われるのですか? まさか兵法書のたぐいが置いてあるとは思えませんが。なんです?読本ですか?」

 周瑜くんはきちんとおつりを受け取り、財布にしまうと陸遜に向かって頷いた。

「うん。お話。今、流行っているの」

「へぇ.....どのようなものなのですか?」

「あのね、恋愛小説みたいなものかなぁ。次に陸遜にも貸してあげるね〜」

 周瑜くんは笑った。

「れ.....恋愛小説ですか。大都督殿でもそのようなものを読まれるのですね」

「えー、どーしてぇ? おかしい?」

「いえ.....なんだか、ある意味、あたりまえすぎて.....新鮮です」

 思案顔で陸遜は言った。

「もー、りくそんはいっつも難しい言い方をするねぇ。あのね、この本はシリーズで出ていてね。これはその第四巻」

「そんなに続いているということは、読者が多いのですね」

「うん。そうだと思うよ。やっぱり実在の人の名前使うと、臨場感があるものね」

 周瑜くんはさわやかに言った。

「周瑜殿.....実在の人物というのは? まさか、孫権様や孫策様などが出てくるのですか?」

「んー、出てくるシリーズもあるよ。この本はね、周瑜と陸遜シリーズの第四巻」

.....は?」

「恋愛物なんだよ〜。周瑜は陸遜のことが好きで、陸遜も周瑜を想っているの。でもね、妻のいる周瑜を思いやって、陸遜は身を引こうとするの。わざと周瑜にひどい言葉を投げ掛けてね、嫌われようとするのよ。でも、周瑜は陸遜のそんな気持ちになかなか気づけなくてね。ようやく最期の最期で、ふたりは.....

「も、もうけっこう!皆まで言わないでくださいっ!」

 陸遜の声は、ほとんど悲鳴と化していた。

「あ、ごめんね。わかっちゃったらつまらないもんね。私が読み終わったら、先にりくそんに回してあげる。かんねーは後でいいや」

...............

「あ、今回の挿絵、キレイだなぁ。ね、ほら、りくそん」

 周瑜くんは見開きのラブシーンを、陸遜の眼前につきつけた。不意をつかれた形となり、陸遜はその大きな瞳で思い切りその挿絵を見てしまった。

 次の瞬間、陸遜は完全に石化した。

 その絵は.....その絵は、あろうことか、赤い雅びやかな衣を身に着けた周瑜くんが、半裸の陸遜を組み伏しているではないか。

 しかもそれは決して力づくといった風ではない。なぜなら、のばされた陸遜の手は、周瑜くんの胸元に忍び込んでいるし、なによりも陸遜の、うっとりと睫毛のかぶさった瞳、半開きの口唇が雄弁に物語っている。また、陸遜がほとんど裸体を晒しているにもかかわらず、周瑜くんのほうは、華美で重厚な衣を纏っているのが、いっそう艶めかしい雰囲気を醸し出していた。

 陸遜は、たっぷり三十秒は沈黙を守った。そして不審に思った周瑜くんが、声をかける直前、彼は切れた。

「ぎ...............

「ぎ〜?」

「ぎ.....ぎゃぁぁあああ〜っ!」

「きゃー。急に大きな声出さないでよ〜。びっくりするじゃあないの」

「び.....びっくりしたのは、私の方ですッ!.....いったい、これはどういうことなのですーっ!」

「え〜? どういうことって、だから、こういう恋愛小説なの〜」

「し.....しゅ、しゅ、周瑜殿! あなたはなんともないのですかっ? こ、こんな破廉恥な.....!」

「えー? まぁ、お話だし。でもちょっと、小喬や奥の方々には見せられないよねぇ」

 周瑜くんはそう言うと、笑いながら愛妾の名前を何人かあげた。

「そ、そういう問題じゃないでしょう! 誰に見せられるとか、見せられないとか.....! あっ.....!」

「なーに?」

「今日.....甘将軍が読んでいた本.....!」

「あ、三巻でしょ? 太史慈から回ってきたやつ。私が返したの、昨日なのに、もう甘寧まで回ったのかー。みんな読むの早いなぁ」

「周大都督ッ! ま、まさかとは思いますが、この本を城内に広めたのは.....

 震える声で、陸遜は問うた。