孫呉の秋★物語!
<11>〜<15>
 
 
 
 

 

 

    

「よしてったら.....!」

 ぐんと腕を突っ張らせても、厚い胸板はびくともしない。それでも陸遜は、覆いかぶさってくる巨体を押しのけようと必死に頑張った。性急な甘寧の手が下履きにかかる。

.....っ! いやです!ダメですってば.....!」

「あばれんなよ〜。あ、それとも今日はそーゆープレイ?」

「バッ..... ち、ちがいます! さわらないでっ!」

 今、コトに及べば、すでに興奮しきっている肉体を見られてしまう。それに対して、甘寧がどういう反応をかえすか予測がつかない。なにより恥ずかしいことこの上ないではないか。

 すでにそういう関係にあるとはいえ、陸遜の方から、求めて行為に及ぶことなど、まずないのだ。血の巡りだけは人一倍良好な甘寧に、力づくで座臥にもつれこまれるのがここしばらくのパターンと化していた。

 だが今の状況は、到底無理やり押し倒されて、と言い訳できる有り様ではない。その証拠に、下履きを力づくで脱がされたとき、カチカチにいきりたった若いソレは、邪魔者を退かされた快感に歓喜した。

「きゃーっ! どいてください! だめですっ!見ないで!どっかいってくださーいっ!」

 脳天から炎が吹き出すような羞恥心に、陸遜は支離滅裂に叫んだ。

....................!」

「いやですったら! どいて!」

...............

「もう! なに黙り込んでるんですっ! 今日はちょっと身体の調子が悪いんです! だから.....

「おい.....

 聞いたこともないような低い声に、陸遜はそらせていた顔を、ハッと持ち上げる。

「おい、伯言.....だれか隠してんのか?」

..........は?」

.....この室に誰か他にいんのかって聞いてんだよッ!」

「え? ええっ?」

「とぼけんなよっ! 今の今までお楽しみだったんだろッ? じゃなかったら、こんなになってっかよっ!」

 その部分を思い切り指差されて、陸遜はバタバタと股間を隠した。

「ご、誤解.....誤解です、興覇っ!」

「おめーだけは、こういう形でオレを裏切るとは思わなかったぜ。他にデキたんなら、ハッキリそーいやいいじゃねぇか!」

「興覇!それは誤解.....

「それともなにか? おめーはそいつとこのオレと両てんびんにするつもりだったのかよ? そうとも知らず、オレは超マジだったのに.....

 熱血漢というのは、思い込みも激しいのだろうか。甘寧は怒濤のごとく泣き叫んだ。

「興覇ッ! 落ち着いてください。ちがうのです.....コレは.....その.....こうなったのは.....

「なにがどうちがうんだよっ! おめーってヤツは.....こんなにビンビンに.....

「コウハーっ! 泣きながらものすごいコトを言わないで! は、恥ずかしいじゃないですかー!」

 もはや陸遜も涙目である。

「泣きてーのは、オレの方だよ、ちきしょーっ!」

「泣かなくていいんですったら! あなたの思っているようなことはなにもありません!」

「じゃ、じゃーなんで.....!」

 だん!といきり立った甘寧の足が、座臥を蹴った。その拍子に枕辺からバサバサと床に落ちたものがある。

「きゃっ.....!」

 陸遜は小さく悲鳴を上げた。サーッと頭から血が引くのを感じる。

.....なんだよ、これ.....何か落ちたぜ」

「あっ、ダメです!拾わないで!」

 大慌てで手を伸ばす陸遜だが、甘寧のほうが早かった。

「興覇ッ!」

.....おい、これ.....

「ちがうんですっ! .....そうなんだけどそーじゃないんですっ!」

 陸遜は意味不明の言葉を口走った。甘寧の鬼のような形相が、あっという間に、にへらとくずれた。

「なんだよ、もぉ〜。びびらせんなよ〜、伯言〜」

「な、なに.....

「やー、超カンチガイ。わりーわりー」

「こ、興覇.....

「そーだよな、悪かったな〜。でも、おめーでもやっぱ一人エッチすんだよな〜。まー、男だもんな、あたりまえか。でも、オカズが周瑜×陸遜本っつーのは、ちょっとジェラシ〜」

「は、はぁ?」

 今度こそ陸遜は心の底から大声をあげた。

「まぁまぁ、わかった、わかったから」

「ちょっと、興覇! そんなんじゃ.....]

「あー、はいはい。照れるな照れるな。でもオレサマが来たからにはもう大丈夫! ひとりよりもやはりふたり!人類皆兄弟! さぁーて、欲求不満の解消に、今日は一発、濃厚なのいってみよーか!」

 まさしく下半身に血がたぎってきたのだろう。甘寧の目がぎらぎらと火を吹いた。

「ちょっと、ちょっと、待って.....ご、誤解.....!」

 陸遜の声は、瞬く間にくぐもった悲鳴に取って代わられたのであった.....

 

 

「陸遜、どうかしたのか?」

 朝議の席より立ち上がった陸遜に、声をかけた人物がいた。他ならぬ、君主孫権である。

 灌漑施工に関する報告の後半半分、ほとんど意識のなかった陸遜は、思わずぴくりと身をふるわせた。

「は? いえ、なにか私に不都合が.....

「いや.....歩き方がなにやら、動きにくそうであったから.....どうかしたのかと.....

「!! い、いえ、なんでもございませんッ! お気遣い恐縮でございますッ!」

 そう叫ぶと、陸遜は、逃げるように室を辞した。後には首をかしげる気のいい王様が残されるだけであった.....

.....痛っ.....もう、あの体力バカは.....!加減を知らないんでしょうか!」

 ちっと舌打ちする陸遜。彼にしてはいささか似合わないしぐさだが、さすがにそういう悪態もつきたくなるというものなのだろう。さきほどから背中は、ギシギシと油の切れた鋼のような音を立て、鈍痛を訴える腰は、もはや自分の身体の一部というのが信じられないほどである。

.....興奮しなかったわけではないのですが.....別にイヤだったというわけでも.....ただね.....ものには限度が.....

 とんとんと右手で、きしむ背を叩いてやりながら、陸遜はいろいろと考えていた。まずは、あの大量の本の置き場をなんとかしなければならなかった。あのまま、自分の部屋に置いておけば、甘寧になんと思われるか、想像するだに恐ろしい。

 『オカズ』などという下世話な単語が、脳裏を掛け巡り、目の前が真っ暗になる。陸遜は低い苦鳴を上げた。

.....うう〜」

「りくそ〜ん。どうしたの〜?」

「困った..........うむ〜.....

「りくそ〜ん、ってば!」

「ぎゃっ!」

 独り言を遮られ、我知らず陸遜は悲鳴を上げる。神出鬼没の周瑜くんである。

「しゅ、しゅ、周瑜どの! 驚かさないでくださいっ!」

「えー、さっきからずっと声を掛けてたのに、りくそん、全然気づかないんだもん〜」

 とろとろと周瑜くんは、陸遜のとなりに並んだ。なんとなく陸遜は歩調を合わせてしまう。急いでいるのならば、さっさと歩み去ってしまえばよいのに、周瑜くんには、なぜかそうさせない、不思議な力があった。

「気分が悪いの〜?」

.....ただの寝不足です」

「蜀の人たちが来たから、いろいろ心配してるんでしょ」

 遠回りではあるものの、周瑜くんにしては、なかなか気の利いた言葉であった。

.....ええ、まぁ、すべてはそこに起因しています。周大都督にはお分かりなのですね」

「うん.....陸遜、いっぱい心配してたもんねぇ。でも、そんなに気にしなくてもだいじょうぶだよー。りょもーもたいしじも、ちゃんと趙雲殿にあやまってくれたみたいだし〜。きっと、趙雲どのなら、わかってくれると思う〜」

..........?」

「陸遜はすっごく心配性なんだから〜」

 くすくすと周瑜くんは笑った。陸遜の記憶のアルバムが、バサバサと音をたててめくられる。甘寧とどーのこーのなる前の記憶.....陸遜は、趙雲と呉の将軍たちとの小さないさかいを思い出した。そのとき、甘寧は中座していたのである。

「あ、ああ.....あのこと.....

「どしたの〜?」

「あ、いえ、そ、そうですね。趙雲殿はとても気持ちの清らかな方のようですから.....謝罪を受け入れてくれたものと.....思われます」

「そうでしょ〜、ね、陸遜もそう思ったんだね〜 わたしもそう思ったの〜」

 周瑜くんはひどく嬉しそうに、にこにこと笑いながら頷いた。どうやら、周瑜くんは、気持ちのやさしい趙雲を好いたらしい。

「ところで、陸遜、今日はなにかご用があるの〜?」

 大都督たる周瑜くんのほうこそ、「ご用」はたくさんあってもおかしくないのだが、彼はいつでも、とろとろとゆっくりで、不安定で、曖昧に、流れる時間の合間をただよっていた。

「ええ、もちろん、今日は何人かの方と打ちあわせを予定してますし.....時間があれば、蜀の方々に城内をご案内したいと.....

 陸遜は不意に言葉を切った。名案が浮んだのだ。

 .....あれらの本.....

 いわゆる掻き集めた春本の類いの保管場所.....それにもってこいの場所を思いついたのだ。だれもが気軽にたずねることの出来ぬ場所、深い交際相手を持たぬ人の居場所、なにより、春本など、とりたてて騒ぎ立てるものでも、特別視するものでもないと思っている人の室.....ならば、周瑜くんの室ほど最適な場所はない。

 大都督周瑜の身分は、城内でも、君主孫権に比肩するほどに高い。つまり一介の武将らが、プライベートで気軽にたずねられる相手ではないのだ。

 また周瑜くんは、正妻小喬の他に、何人かの愛妾を持っていたが、彼の室に直接住まわせている女はいなかった。正妻は城内ではなく本宅に居たし、愛妾らもそこの別棟で暮らしている。つまり城内で周瑜くんに割り当てられた室に入ってくる女は、周瑜くん自身が呼ばないかぎり、雑役をこなす婢の他には居ないのである。

 そして周瑜くんの室は、だれよりも豪奢で華やかで、無駄に広かった。もちろん、孫権が実兄の義兄弟である周瑜くんを、そのように遇したのである。

 なにより、周瑜くんというキャラクターを熟知する陸遜には、彼がその類いの本に、もはやそれほどの興味を持っていないことがわかっていた。周瑜くんは子どものように飽きっぽく、めんどうくさいことが嫌いな人だった。「読んではいけない」と取り上げられてしまうと、最初は多少ぐずっていても、すぐさま次の興味の対象を見つけ、それで遊ぶことができるのだ。

 春本も、城内で流行っていたころは、面白がって回し読みの輪の中に入っていた。だが陸遜が摘発作業を決行し、次巻を入手するのが困難になると、わりとあっけなく、それに対する興味を失ったように見えた。

.....周瑜殿.....

 陸遜は、蝶々を追いかけ始めた周瑜くんに声をかけた。

.....周瑜殿、お願いがあるのですが.....

「なぁに〜?」

 周瑜くんは、てれてれと戻ってきた。

「いえ、それほど難しいことではないのです。ささいなことなのですが.....

 あえて、そう前置きし、軽い調子で、陸遜は本題に入った。

 

 

 陸遜は廊下に人影がないのを確認すると、したたた、とカニ走りで、周瑜くんの室へ移動した。

「いやー、周瑜殿、本当に申し訳ございません」

「ううん、別にどうってことないから」

 ぼんやりと周瑜くんはこたえた。往復すること五回。陸遜は溜めに溜め込んだ春本を、人知れず周瑜くんの室に運び終えた。

「そっちの書架、空いてるでしょ〜。そこに入れておいていいよ」

 周瑜くんが指さしたのは、主寝室に近い、作り付けの巨大な書架であった。確かにここならば、山積みになった春本も簡単に納めることができよう。

...............

「どしたの〜、りくそん。はやくすませてどっか行こうよ〜」

 いいかげんに退屈になってきた周瑜くんがせかした。

.....周瑜殿。お心遣いはありがたいのですが.....この書架はいささか目立ちませんか? 目に付く場所にしまっておくようなものでもないですし。まぁ.....大都督殿の私室をお訪ねできる方は限られているとは思いますが.....

「それがどうしたの〜。目立っちゃいけないの?」

「いえ.....ただ適切な処置を考えつくまで、預かってもらえればそれでよいのですから.....

 陸遜は言った。巷に流布する猥褻本の類いは大分数が減ってきたかのように見られたが、完全なる撲滅には至っていない。その供給源を突き止められたわけではないのだ。それゆえ、せっかく収拾した情報源を処分するわけにはいかなかった。

「ですから.....こんなに目に付くところではなくて.....もっと.....その隅のほうで.....

「じゃあ、その棚の一番下の段に入れておいたら〜」

 どうでもよさそうに、周瑜くんが言った。大きなあくびをしている。今度は眠くなってきてしまったらしい。

.....一番下ですか.....

 しぶしぶと陸遜は了承した。本当ならば、書架の裏側にでも隠してしまいたい気分なのであるが、そういえば、さすがの周瑜くんも怪しむだろう。

 だからといって陸遜の室に戻すわけにもいかない。ただでさえ、書で溢れかえった室のなか、しかも陸遜のためなら、書架の裏だろうが、衣装棚の中であろうが、忍びこんでくる甘寧という曲者がいる。

 欲求不満などという、こっ恥ずかしい誤解を招くよりは、ここは人畜無害な周瑜くんの室に押し込めておくのが得策であったのだ。

「ふぅ.....おさまりましたね。周瑜殿、お手数をおかけしました。なるべくはやいうちに.....

...............

「周瑜殿?」

「すーすー.....

 眠気がさしたのか、周瑜くんは寝椅子に腰掛けたまま、ここちよさげに寝コケていた。長い髪がシルクの掛け布の上に広がり、薄い色合いの瞳が閉じ合わされている。

 起きているときならば、口さえ聞かなければ、美周郎の名に恥じぬ、美丈夫ぶりである。だが、こうして気持ちよさそうにうたた寝をしている周瑜くんは、ずいぶんと幼げに少女めいて見えるのであった。

.....不思議な人ですね。まったく.....少しは私の心配事にも関心を持ってくださると嬉しいのですがね.....

 陸遜はやれやれといわんばかりに、大きく吐息し、手近な羽織物を周瑜くんにかけてやった。音を立てないよう、室を出る。

 やらねばならぬことはいくらでもある。今は何をおいても、来訪した蜀の重臣の歓心を買うことだ。陸遜としては、対蜀外交に不満が無いわけではなかったが、北方から虎視眈々と孫呉の動向を見据えている曹魏の存在を考えれば、現段階ではやはり劉蜀との間に、確固たる結びつきを作っておくことが、肝要かと思われた。

.....外交交渉はストレスがたまりますね.....むしろ私には軍略の方が気が楽です」

 ひとりごちる陸遜であった。実際の戦場で策を練っているほうがまだマシだというのであろう。

「今は蜀と和平交渉を行う必要がありましょうが、近い将来必ずや戟を交える間柄になるはず。でなければ大殿の目指した孫家の天下はやってこない」

 陸遜は室に戻り、読みかけの兵法書を紐解いた。今日はこの後、諸葛亮らとの会合、視察の予定が入っている。陸遜の目は竹簡を追っていたが、頭では別の事柄を考えていた。

.....いよいよ蜀と一触即発の状況になったならば、尚香殿のお身柄はどうなさるおつもりなのだろうか.....それとも、殿には、もはや蜀と争ってまで、天下を統一するおつもりはない.....? この中華を劉備と二分にすればよいとお考えなのであろうか。.....もし、そういわれたのならば、軍師たる私はなんと申し上げるべきなのであろうか.....

 陸遜の手から、竹簡が滑り、床に落ちて乾いた音をたてた。生真面目で神経質な若き俊英は、ひとり物思いに沈む。ふと昨夜の不心得者の面影を思い起こし、そんなおのれのふがいなさに自嘲する陸遜であった.....

 

 

 周瑜くんの室をそっと出ると、陸遜は早足で広間に戻った。諸葛亮が待っている。彼とは今回、初対面であったが、孔明という人物を、表面的なおだやかさ、人当たりの良さだけで見てはならぬということは、本能的に悟っていた。

 見たままの温厚なだけの軍師であるならば、蜀の丞相などという地位にはあるまいし、此度も使節団の大使として呉にやって来はしないだろう。なにより、あの司馬懿が唯一ライバルと認める人物なのだ。曹魏の筆頭軍師、司馬仲達の恐ろしさは身をもって体験している陸遜である。黒羽扇を片手に、酷薄な微笑を浮かべた彼の人の面ざしが脳裏を横切った。

「陸伯言殿。御多忙中、お手数をおかけいたします」

 司馬懿の禍々しい笑みとは、正反対の諸葛亮の微笑。陸遜は気づかれぬよう、すぅと呼吸を整えると、孔明に向き直った。

「とんでもございません。いたらぬ若輩者ですが、よろしく御指導願います」

 

 周瑜くんは、大きな室の、大きな座臥の上で、ひとりぼっちで目を覚した。彼には一人でいる時間もたくさんあったが、今はひとりでいたい気分ではなかった。なぜなら眠りにつく直前まで、陸遜と話をしていたことを覚えているし、夢の中でも陸遜や呂蒙と一緒に遊んでいたからだ。それゆえ、たったひとりで大きな室に取り残されているのは、言いようのない理不尽さを感じたのであった。

「りくそーん.....

 周瑜くんは、さっきまでいたはずの人の名を呼んでみた。もちろん陸遜がこの場にいるはずはない。とっくの昔に孔明らと視察に出ているのだから。

「りくそーん.....りくそーん.....もうっ、なんでいないのっ! どうしてひとりなのよっ.....もうッ!」

 バフンバフンと、周瑜くんは大きな座臥の上で寝返りを打った。背の中ほどまである、長い髪がざんざんと揺れる。一七八センチという当時ではかなり長身をもってしても、その座臥は横幅が余るほどに大きく、贅沢なものであった。

「もう! つまんないよッ! どっか行くなら起こしてくれればいいじゃない!」

 周瑜くんは座臥から飛び降りた。彼はたいそう心のやさしい人ではあったが、基本的には自己中心的でわがままなのである。かんしゃくを起こして、蹴っ飛ばした枕が扉にぶつかり、派手な音を立てて転がった。

 一通り暴れ終えると、周瑜くんは寝椅子の上に、ストンと座った。乱れた髪を手ぐしで整えているところに、その人はやってきた。

 .....トントン

 小さなノックの音は、最初、周瑜くんの耳には入らなかった。

 トントン。 

 二度目のノックの後、その人は神妙な面持ちで扉を開いた。驚いた周瑜くんは顔をあげて、扉の方を見遣る。

「あ、あの、勝手に開けたりなど.....失礼いたしました。大きな音がしたので気になりまして.....

 申し訳なさそうに突っ立っているのは、蜀の一行のひとり、趙雲であった。

「その.....いかがなさいましたか? 御気分でもお悪いのですか?」

「ちょーうん殿〜〜」

 やさしい言葉に感動したのか、周瑜くんはトコトコと駆け寄ると、趙雲に抱きついた。感情表現が直接的きわまりない周瑜くんであった。

「趙雲どのぉ〜〜〜」

「わっ! うわぁ! な、なに、どうされたというのですかッ?」

 気の毒な青年はたいそううろたえた。あまり免疫がないのだろう。

「聞いて〜。目が覚めたら、ひとりぼっちだったのー。りくそん、いなくなっちゃったの〜。なんでひとりなのよ、もぅ!」

「え? は、はぁ、あの.....

「さっきまで、りくそん、いたのに、黙っていなくなっちゃったんだよ? ひどいよ。ちょっと寝ちゃったスキに」

「ええ.....まぁ.....

「一人は好きだけど、今はヤなの〜。いいときはいいけど、今はヤな時なの〜」

「あ、はぁ.....あの、どなたか呼んで参りましょうか?」

「いいの。呼ばなくていいの〜。趙雲殿、ここにいて」

 周瑜くんはパンパンと座臥を叩いた。まるでだだっこである。と、いうよりもむしろ、本物のだだっこなのであった。孫呉の旧臣ならばともかく、昨日今日、この土地にやってきたばかりの年若い将軍である。周瑜くんの効率的な扱いなど、わかるはずもなかった。

「あの.....周大都督殿。なにかご用があればうかがいますが.....ただ諸葛亮殿は外出中でして、私だけでは.....

「なぁに? 孔明殿が何だって言うのよ。趙雲殿、ここにいてよ。いてお話して」

「お話し相手が欲しいということでしょうか。私などでよければ.....しかしなにぶん学才がございませんので、兵法書のたぐい程度しか読んでございません。大都督殿の問答のお相手など、とうてい.....

「そんなむずかしいこと、言ってないじゃない。趙雲殿とふつうのお話がしたいの〜。ここにいてお話して」

 周瑜くんは、イライラしたように、再び座臥を二三度叩いた。寝起きの周瑜くんは、常よりも若干気が短くなっていた。仕方なく趙雲は、座臥の上に腰を下ろした。すぐにその場所が寝台であることに思い至り、居心地悪げに縮こまってしまう。一八八センチもの男が、所在なげに身を縮こまらせているのは、どことなく笑みを誘う光景であった。いっぽう話し相手の出来た周瑜くんは、たいそう満足げであった。

「ねぇ、趙雲殿。子龍殿って、あざなでお呼びしてもいい〜?」

「あ、はい」

「ありがと〜。子龍どの〜、えへえへ」

「あ、はぁ.....

「ねぇ、子龍殿。このお城はどお? なにか困ったことはない?」

「いえ、そのようなことは.....やはり江南の地は気候がよろしいですね。正直、呉の都がこんなにも華やいでいることに驚きました」

「うん。曹操様の居られるところも大きな都市だったけど、建業もにぎやかでしょ」

 周瑜くんはにこにこと笑いながらそう言った。

「華やぎという点では、ここ孫呉の地の方が、色彩が色とりどりですね。とても美しい都だと思います」

 趙雲は真っ正直にそう言うと、くるりと周瑜くんを見た。睫毛の長い女のような顔が、触れんばかりに側近くにあるのに気づくと、彼は慌てて腰掛ける位置をずらしたのであった.....

「あ、あの、周瑜殿のお生まれは、やはり呉郡でいらっしゃるのでしょうか」

 間が持てなくなったのか、趙雲は口を開いた。

「うーうん。近いけど、廬江郡。柴桑に居たときが長かったの」

「柴桑.....

「うん。あったかいところー」

 周瑜くんは、よくわかるようなわからないような返事をした。

 間隙の後、ふたたび静かな時間が流れる。周瑜くんにとっては、とりたててめずらしいことでもなかったらしく、座臥の上でにこにこと笑っていた。だが趙雲はどうしても落ち着けないのだろう。何度か座り直したり、視線を空に浮かせたりなどしていた。

「あ、あの.....

「なぁに、子龍どの。.....子龍ってあざな、かっこいー」

「い、いえ、そんな。.....あの、周大都督は中原を御存知なのかと思いまして.....あの、自分は冀州、常山の生まれで.....

「そーなの!」

「はい。だからどうだ、ということではないのですが.....

「ちょっとは知ってるよ。北の方。冀州のほうにまでは、さすがに行ったことはないけどね」

「中原にいらしたのは.....

「うん、黄色い布の人たちが反乱を起こしたとき、孫堅様や策と一緒に出陣したんだよ。北は寒いのね。虎牢関、雪ふってたもん」

 人さし指を頬に押し付けながら、周瑜くんは言った。なにかを思い出すときの、周瑜くんのくせらしい。

「ああ、周大都督は黄巾の賊乱に参戦させられたのでしたね。孫堅軍は、あの戦で、大変な功績を挙げたとうかがっております」

「うん、孫堅さまはとってもお強い方だったから〜。策もね〜」

 周瑜くんはにこにこと笑った。

「あとね〜。許昌もちょっと知ってるの〜。あんまお城の外に出られなかったから、街の中のことまではわからないけど」

「そう.....なのですか」

 意外そうに趙雲は眉を持ち上げた。

「うん。前の戦の時にね。ちょこっと怪我して、モタモタしてたら、夏侯惇将軍が連れてってくれたの〜」

 そう言うと、今度こそ周瑜くんは、ねへねへと笑った。

「かこう.....とん.....って、あの曹操の片腕の.....隻眼将軍のことですか?」

「うん、そー。夏侯惇将軍、あんまし笑わないけど、とってもやさしーの。ゴハン食べらんなくて泣いてたら、こっそりあんにんドーフ持ってきてくれたし、張コウにおクツをかくされたときも、あたらしいあったかいの、買ってくれたの〜」

.....は、はぁ」

「ありがとーって言っても、むっすりしたままなの。でも、やさしーの。具合が悪くて、寝てたときは、いっぱいお部屋、来てくれたの」

..........

「だからね、ヒマだったからお外ばっか見てたら、なんとなく許昌の都が、どんなところなのか、わかったカンジー」

「そうなの.....ですか」

「うん、許昌の都はね、曹操様みたいだったよ。整然としてて、合理的で、色んなものがちゃんと組みあわさってて、冷たいの。ひんやりしてるの」

..........はぁ」

 返事に困る趙雲。さもあろう。そんな彼のようすに注意を払いもせず、周瑜くんは話続けた。

「子龍殿、夏侯惇将軍と会ったことある?」

「あ、はい」

「そーだよね、子龍殿も、強いお武将で、戦にたくさん出陣されているんだろうから、夏侯惇将軍のことはよく知ってるよねぇ? 張コウはどう? あのヤなヤツ。司馬懿殿のことは? 知ってる?」

「あ、ああ、はい。張コウ.....張儁乂将軍のことですよね。操る武器がかなり特殊なものなので、よく記憶しております」

「そう! あの長いツメ!」

「ええ、とても強い武将ですね。一度、戦場で直接対峙したことがありましたが、水入りで」

「え、そーなの?」

「はい。街亭の隘路で。本陣の司馬懿殿が負傷したという知らせが入るなり、まるで疾風のごとく退陣されました」

「ふーん、そうなんだ.....司馬懿殿でもお怪我をされること、あるんだねー」

「それは.....まぁ、戦場ですから。あの御方は軍師とはいえ、総大将を務められることもおありとか。軍師司馬懿とは、直接相見えたことはありませんが、きっと恐ろしく切れる方なのでしょうね」

 趙雲は、夏侯惇将軍の戦を思い起こし、ひとつずつ確認するようにつぶやいた。実際、彼の言ったことはみな真実なのである。

「うん.....そうだね。司馬懿殿はとっても頭が良くて、お強くて、冷静で.....怖い人」

 周瑜くんは口ごもった。ひきこまれるように夢中で武将談義をしていた趙雲が、周瑜くんの顔をあらためて見やった。

.....司馬懿殿、コワイよ。じろって見るの。そんでなんにも言わないの。許昌のお城にいたとき、何度かお目にかかったけど、あいさつだけして、すぐにお部屋から出ていっちゃったの.....

「そうなのですか.....周大都督は、曹魏に捕らわれていたことがあったのでしたよね.....

 かみしめるように趙雲は口を開いた。言葉を選び取っている様子だ。不用意な発言で、周瑜くんを傷つけないようにという、彼なりの配慮なのだろう。

「捕らわれてた? うーん、ふつーはそういうのかな〜」

「ですが、よく御無事で、孫呉に帰還されたものです。さすが周大都督ですね」

 気を引き立てるように、趙雲は言った。嫌なことを思い出させてしまったと、気を使っているのだろう。猛将と誉れの高い彼であったが、実は気持ちのやさしい好青年なのである。

「うん。合肥城にね、陸遜たちが迎えに来てくれたの。りょもーも、かんねーも」

「さようでございますか。周大都督は皆さんにとても大切に思われているのですね」

.....うん、そーかな。そーね。お城、燃えちゃったけど、夏侯惇将軍、おケガしなかったかな。きっと司馬懿殿はだいじょうぶだろうけど」

 心配そうにつぶやく周瑜くん。趙雲は一瞬迷う様子を見せたが、思いきるように口を開いた。

.....あの、周大都督は、曹魏を快く思っていないはずなのではありませんか?」

「えー、なんで?」

「こちら.....呉の国にとって、漢王朝を戴いて、その影で勢力を伸ばす曹魏は天敵のはず.....かつて赤壁でも戟を交えた間柄ではありませんか」

「えー、確かに、そうかもしんないけど.....

 周瑜くんは、座臥にとなりあって腰掛けても、頭ひとつ上にある趙雲の顔をのぞき込んだ。女とみまごうほどに、まつげのうるさい、色素の薄い双眸が、ひたりと趙雲を見据える。

「そーかもしんないけど、それはお国の問題でしょう。夏侯惇将軍、好きだもん。私は呉の人だったけど、夏侯惇将軍や、お坊さんみたいな将軍や.....曹操様もやさしかったよ。曹操様にお花、もらったもん。ほら!」

 周瑜くんは、枕辺に置いてあった、蘭の鉢植えを趙雲に見せた。

.....その花を?」

「うん。曹操様がお別れの時に下さったの。合肥から持って帰ってきたときは、さすがに弱っちゃってたけど、植え替えてお水をあげたら、元気になったのー」

「そうなのですか.....

 趙雲はそれだけいうと、口をつぐんだ。眉間にしわを寄せ、前で組みあわせた両の手をじっと見つめる。

「どしたの、子龍殿〜」

「いえ.....

「気分、悪いの〜?」

「いいえ、そうではありません。そうではなくって.....

「むずかしーお話ばっかで、疲れちゃったね〜。なにか面白いお話しよーよ。それともお台所に行って、お菓子もらってこよーか」

.....周大都督。あなたのおっしゃることは、すべてにおいて、私の価値観をゆさぶります。私は今まで人との関係を、そんなふうに考えたことも、そういった形でとらえたこともありませんでした。.....本当に.....考えさせられます.....

 ひと言ひと言を搾り出すように、趙雲はつぶやいた.....