曹魏の春★物語!
<1>〜<5>
 
 
 
 

 

 

「では、昭。今日はもう下がるがよい。父は殿に御用があるゆえ」

「はい、父上。ありがとうございました。大変勉強になりました」

 昭と呼ばれた少年は、すっと立ち上がると、きちりとした礼をとった。年のころは十五、六。成長期の少年らしく、すらりとした細身である。

 だが長衣にかくれた腕や脚には、しっかりと筋肉がつき、彼が勉学だけでなく、武芸にも長じている様子がうかがえる。

 司馬昭。あざなを子上。ご存知、黒羽扇の軍師、司馬懿の次男である。

「父上、本日は邸にお戻りでしょうか? 孫子の兵法書で一部わからぬところがございまして」

「さようか。少し遅くなるが戻る」

「はい!では失礼いたします!」

 実の父に礼儀正しくそういうと、昭は退室した。司馬懿はゆっくり立ち上がると、思いついたように鏡の前に立つ。衣服の乱れを神経質に直し、彼もまた自室から出ていった。

 司馬懿を呼びつけたのは、丞相、曹操である。

 

 「おや、昭ちゃん。ごきげんよう」

 司馬昭は正面門につづく、長い回廊を歩いていた。その彼に親しげに声を掛けてきた人物がいる。

「相変わらずステキですね★ 父君に似て。うふ」

.....張コウ将軍.....ごきげんよう。もうっ『昭ちゃん』だなんて呼ばないで下さい! 私は今年十六になるのですから!」

 憤慨して言い返す司馬昭。張コウはいつでもこの調子なのだ

「はいはい。ところでお昼をお誘いに参ったのですが、司馬懿殿はお部屋ですか? キャッ★」

「なんです、その『キャッ★』ってゆーのは! 父上に手を出さないで下さいって、いつも言っているではありませんか!張コウ将軍!」

「おーや、そうでしたっけ? さーて、司馬懿殿、司馬懿殿」

 まったくめげない張コウであった。鼻歌を謡いながら、歩き出す背中に向かって、昭はやや意地悪く言った。

「張コウ将軍、せっかくですが、父上はご一緒できないと思いますよ。先ほど、丞相の室にあがられたようですから」

「ま、ホントですか、昭ちゃん」

「息子の言葉を信用しないのですか? 殿からお呼びがあったのですよ」

「んもーっ! タイミングが悪いですねぇ! せっかくふたりっきりで楽しいランチをと思いましたのに。司馬懿殿ったら!」

 あくまでも自己都合のみで怒る張コウであった。

「仕方がございませんでしょう。丞相のお召しでは」

「そうですね、仕方ありませんね。では殿もご一緒にお連れいたしましょうか。ヤレヤレ」

「ちょっ.....ヤレヤレって、張コウ将軍! どちらに行かれるおつもりです?」

 スタスタと歩いてゆく長身に、昭があわてて声をかけた。

「は? もちろん殿のお部屋ですよ。お昼をお誘いに行くのですから。うふふ。それに今行けばお二人の秘密のお話が聞けるかもしれませんし★」

「うふふって、張コウ将軍!立ち聞きなど.....そんなはしたない!」

「はいはい。お子さまは早くお帰んなさい。これからは大人の時間です」

「真っ昼間から妖しげなコトを言わないでくださいっ! あ、待って、待って下さい!」

 張コウは何のはばかりもなく、ずんずんと進んでゆく。思わず後を追いかける司馬昭。歩幅の大きな張コウにくっついて行くと、あっという間に目的地に着いてしまった。

 

「あわわわ.....ほ、本殿の.....じょ、丞相の私室.....まずいですよ〜」

 年若い司馬昭が慌てるのも道理である。執務をとる銅雀殿の側近くに、丞相曹操の私室がある。万事において派手好き、新しもの好みの曹操の私室は、豪奢できらびやかだ。

 洞天山堂図の彫りぬかれた扉板。把手は贅沢にも箔が塗られ、瀟洒な細工が施されていた。

「ちょ.....張コウ将軍っ.....ああ、どうしよう。こんなところまで勝手に入ってきて.....だれかに見つかったら、ひどく叱られてしまうのではありませんか?」

「だいじょうぶ。私はどなたからも愛されているのです」

 いけしゃあしゃあと言ってのけ、張コウは大きな扉の前にはりついた。

「ど、どうなさるおつもりなのです。声をおかけになられるのですか?」

「ええ、いずれはね。ですが今は秘密のカホリに魅かれます.....

「は.....はぁ?」

「しっ! 大きな声を出してはいけませんよ、昭ちゃん」

「張コウ将軍っ? 本気で立ち聞きをなさるおつもりですか? ま、まずいですよッ!いけません!父上に知られたら.....

「お気になさらず。私は司馬懿殿にも愛されているのです」

「張コウ将軍ーっ!」

「し〜ッ!」

 張コウは人さし指をついと立て、健全な青少年をたしなめた。

「静かに、昭ちゃん。もうお話が始まっているようです。聞こえませんよ!」

「ちょ.....張コウ将軍〜.....

 半泣きの司馬昭の肩に腕をまわし、張コウは扉の前に座り込む。そっと耳をくっつけ、彼は昭にGOサインを出した。つられるようにかがみ込む昭。すると、扉を通して、丞相曹操の張りのある声が聞こえてくる。話の相手はもちろん司馬懿なのだろう。だが黒羽扇の軍師の声は、低く小さすぎて、よほど耳を澄ませないと聞きとることができなかった。

.....結婚? .....この私が.....ですか?」

 めずらしい司馬懿の大声に、扉のこちら側のふたりは目を見交わした。

 

 曹操と司馬懿は、小ぶりな円卓を間に挟んで、話をしていた。

 だがその上には、茶菓子と茶器が載せてあるだけで、曹操は座臥に腰を下ろし、くつろいでいる。対して、司馬懿も扇を片手に、長椅子に掛けていた。先に口を開いたのは司馬懿の方であった。扉一枚を隔てたふたり組は、顔がひしゃげるほどに板張りに押し付けている。

.....ずいぶんと急なお話ですな、殿.....この私に結婚話をすすめられるとは.....

「そうか? それほど意外なことでもなかろう、司馬懿よ」

 曹操は軽い調子でそう言った。

「いえ、思いも寄らぬこと。.....反乱分子の索敵でしょうか?」

「な、なに?」

「なんの含みもなく、かような話.....先日献上された呉の歌姫の中に、その手のものでも?」

「いや、そうではなくて! わしはただ純粋に.....

「対孫呉への外交政策でしたら、私にも考えがございます。今は、下手に動くときではございません」

「し、司馬懿、聞かぬか!政治絡みの話ではないのだ!」

 曹操はあたふたと、反れに反れまくった話を、軌道修正した。

.....とおっしゃいますと?」

 冷静に司馬懿が切り返した。するどい口調に、曹操が咳払いをする。

「いや.....そりゃ、おまえ.....ほら数年前に正夫人を無くされたであろう。側室が数名居るのは知っておるが、やはり正妻を定め置かぬのは座りが悪いではないか」

.....別に」

「まぁ、聞かぬか。ぬしの子らも、すこやかに成長しておるのは、わしも見知っている。だが未だ十代であれば、まだまだ母の手は必要であろう。子らのためにも、気立てよく美しい女を、妻に娶ってはどうだ? なぁ、司馬懿よ」

.....まるきり女手がないわけでもござらぬし.....特に必要を感じませぬが」

「そう申すな。おぬしも、聡明で見目形のよい女ならばよいであろう?」

...............

 戸いちまい挟んだところで、張コウがギリギリと爪研ぎしていることなど、まるきりあずかり知らず、曹操は熱心にすすめるのであった。だが鋭敏な司馬懿が、突然のこの話を、単なる結婚話として受け止めるはずはなかった。妙に熱心な曹操の物言いを、いぶかしがるのはあたりまえだ。

.....殿。なにかお心に念ずる事柄が、おありなのではございませんか?まず、それを話していただかなくては」

「む.....なにを.....相変わらず疑い深い男よの」

「職業病でございます」

「いや.....まぁ、ぬしの言うことも最もだな。だが裏の意図.....などと言われるのは心外だぞ。とても良い微笑ましい話なのだ」

「はぁ.....

「実はな、わしの遠縁にあたる娘なのだが.....

 どうでもよさそうな司馬懿の相づちにもかまわず、曹操はさらに声を励まして語り始めるのであった。

 

.....というわけでな。齢二十四。いささか薹が立ったように感じられるかもしれぬが、それは聡明で物腰の柔らかな貴婦人なのだ。いやはや、おぬしのものになってしまうのが口惜しいほどの佳人じゃ」

「ならば殿がお召しになればよろしかろう」

「ふん。出来ることならばそうしておるわ。だがわしには正妻数名の他に愛妾も数多く居る。その列に今さら、娘ほどの年の女を加える気にはならぬ」

「ああ、左様でございますか。ですが私などより、夏侯惇殿のご子息や夏侯淵殿の甥御など、ご親族にも適任はおられると存ずるが」

「そういうわけにもいかぬのだ」

 曹操が押しだすように語気を強めた。

.....彼女はおぬしに惚れておるのだ」

.....は?」

 司馬懿は心の底から驚いたようであった。声が一オクターブ高くなっている。だが、扉のこちら側にいる、ふたりの驚愕の比ではない。

(しっしっしっ.....司馬懿どのを愛しているですって〜ッ!)

(ちょ、張コウ将軍!落ち着いて下さい!)

(この張コウを差し置いて、いったい何処の女が、そんな世迷い言をぬかしているのですーっ! おのれーッ!)

(しーっしーっ! 見つかっちゃいますよ〜ッ!)

 いきり立つ張コウを、司馬昭が涙声でとめる。こんなところで大騒ぎをすれば、他人に見つかるどころか、まず曹操と司馬懿に気づかれる。火を見るより明らかであろうが、張コウの怒りはもはや常道を逸していた。そんな人々の気も知らず、曹操はいけしゃあしゃあと続けた。

「だから.....な? その娘はおぬしに心を寄せておるのだ。不幸にして最初にまみえた良人は、披露目をする前に戦で亡くなったのだ。親と子ほどに年が離れていたゆえ、恋心などはなかったろうが.....やはり身につまされるものがあったのだろう。それからはずっと独り身で通してきたらしい。.....ああ、言うのが遅くなったな、名は.....

.....けっこう。名前をお聞きする必要はござらぬ。それが丞相の命令だと仰せならば、その女人を正室に迎えましょう」

 司馬懿はあっさりと言った。

 

 .....うっ..........

『うっそ〜〜〜〜ッ!』

『うそうそーッ!!』

 声にならぬ叫び声は、もちろん扉のこちら側のふたりである。

(しょ、しょ、昭ちゃん! い、い、今の! 今の聞きましたかーっ!)

(は、はははははい!)

(うっそーっ! 誰かウソだと言ってーッ!)

(し、しーッ! お静かに、張コウ将軍!)

(これが落ち着いていられますかーっ! いやぁぁぁーっ! 司馬懿どのぉ〜っ!)

(張コウ将軍っ!)

 司馬昭は、我を忘れて泣き叫ぶ張コウを叱咤した。.....張コウにつられて慌てはしたものの、司馬昭にしてみれば、複雑な心境なのだろう。実母と死に別れたのは、それほど昔のことではない。昭は母の面ざしも記憶していたし、彼女の纏う香の薫り、そして器用に舞う白い手を覚えていた。

 だからといって、見知らぬ女性が父司馬懿の正妻となること、つまり嗣子である昭の義母になることに、真っ向から反対というわけでもないのだ。そのあたりの感覚は、我々の考える現代の「家庭」の概念とは趣を異にしている。一夫多妻制が当たり前の時代だ。しかも身分が高ければ、なおさらのことである。

 亡くなった母への思慕の念はつきないが、現在、後漢の宮廷でも重きをなす父司馬懿に、正妻がいないという状況は、政治的にも好ましくないのかも知れない、昭はそんなふうに考えたのであった。

(うっそーッ! ウソだと言って下さい、昭ちゃん! 司馬懿殿は一体なにを血迷っておられるのですかーッ!)

(うわぁぁ!しっ.....しーッ! ダメですよ、張コウ将軍ッ! 大声をあげないでください!)

(何がダメなのですッ! ダメなのは司馬懿殿が醜女と結婚することですよッ!)

(ちょっ.....ろ、論点がめちゃくちゃですよ! とにかく落ち着いて下さい、張コウ将軍! ここで騒いでは見つかってしまいます!)

(もはや我らの覗き見など瑣末なことです!この一大事を前にしては! いえ、こーなったらむしろ、見つかる方向でいきましょう、昭ちゃん!)

(うあぁぁぁーッ! 待って下さいーっ!)

 居ても立ってもおれぬという張コウの飾り帯に、昭が決死の覚悟で取りすがった。

(放しなさい、昭ちゃん! 天下の一大事ですッ!)

(ちょ、ちょ、張コウ将軍ーッ! しばらく、しばらくーッ!)

(止めないでください、昭ちゃん!)

 激情家の張コウである。最愛の司馬懿絡みのこととなれば、なにをしでかすかわからない恐ろしさがあるのだ。

(さぁ、お放しなさい!)

(そういうわけにはいかないんですってば! 父上のことがお好きならば、いましばらくお待ち下さい!)

(昭ちゃん!)

 小声ながらも、するどい一声を放つと、張コウは濡れた瞳で、きっと司馬昭をにらみつけた。

(昭ちゃん! あなたは司馬懿殿がぶっさいくな娘と再婚してもいいとお考えなのですかッ? そんな醜女を母と呼べるのですかッ?)

 張コウがずぉぉと昭に向かって伸び上がった。一九四センチメートルの長身は、とてつもない迫力である。だじたじと気後れしながらも、なんとか言を紡ぐ昭。

(そ、そんな.....まだ、どんな女性なのかわからないではありませんか。シコメシコメって.....女の方に対してあまりに失礼ですよ、張コウ将軍)

(ふん! どんな女だとて、この張儁乂に比べれば、不細工な醜女です!)

 その自信の源を問うてみたいと感じた昭であったが、彼はそこまでの冒険家ではなかった。

(いや.....といいますか.....その.....

(そんなコトはどうでもよろしいッ!)

 張コウが、ビシリと昭の言葉を打ち切った。

(問題は司馬懿殿が、殿の命ならば、その女と結婚すると言ったことですッ!)

(張コウ将軍、お声が大きいですってば! と、とにかくこちらへ!)

(昭ちゃん、なんですっ? 早く殴り込みに行かなくては!)

(寝言は寝て言って下さいッ! そんなことをしたら斬首されかねませんよ! 相手は丞相と、『あの』父上なのですよッ?)

 実の息子の言葉には、異様な説得力があったのかも知れない。それとも今はまだ、その頃合いではないと見切ったのか、張コウはしぶしぶながらも後に引いた。昭に袖口を引っ張られ、そのまま回廊への抜け道に向かう。

「うう〜〜〜」

「うならないでください、張コウ将軍.....さて、ここまでくれば一安心ですね」

 昭はホゥと、大きく息を吐きだした。間髪入れずに張コウが吠える。

「どう一安心なのですッ! 肝心な部分の情報は聞き取れなかったし、なにより司馬懿殿は相手の女の名も顔も知らぬのに、妻に迎えるとおっしゃっているのですよ? 正気を疑いますッ!」

 バン!と張コウが、素手で巨木を打った。ものすごい音がしたが、白いほっそりとした手には、かすり傷ひとつ出来ていない。

.....はぁ、まぁ確かにおっしゃるとおりかとも思うのですが.....ですが、この時代、それほど相手の個性に固執することもないのでは.....

「司馬懿殿は無神経すぎるのですッ! まったく相手に興味のキョの字もないくせに、ヤルことはしっかりやるんですからね、あの御方はッ!」

「ちょ、張コウ将軍.....そ、そんな露骨な物言いは.....

「ふん、本当のことですよ! よくもまぁ興味のない人間を抱けるものです。私など愛しいと感じた人にしか触れたくはないですけどね!」

「あ、はぁ.....まぁ.....

 相手が二十歳にも満たぬ少年だという自覚もないのか、あってもこの調子は変わらぬとでもいうのか、白皙の美青年はずけずけと言って退けたのであった.....

「昭ちゃん! 此度のお話は、この張儁乂、全力でぶっこわさせていただきますよ!」

 渾身の力をこめて、張コウはそう叫んだ。

.....張コウ将軍.....

 はぁと大きなため息をつき、昭はぼそりぼそりと言を紡いだ。

「あの.....なにゆえ、父の婚姻にそれほど強固に反対なさるのです? 確かに、顔も知らぬ、名すら聞く気が無いという、父の態度が好ましいものでないということは、私にもわかります。ですが、父の身分や、丞相からの奨めであることを考えれば、お話をお受けするのもやぶさかではないと思うのです」

「そんな小難しい理屈は知ったこっちゃありません!」

「ちょ、張コウ将軍.....

「私は嫌なのです! 司馬懿殿がつまらぬ女を正妻として娶るというのが、ただひたすらに嫌なのですよ!」

「そ、そんなワガママな.....

「ワガママ大いにけっこう! この愛に歯止めはききません」

 いっそ誇らしげにのたまう張コウに、年若き昭は圧倒されてしまう。だが負けっぱなしでいるわけにはいかない。嗣子として、司馬一族の男子として、家長司馬懿の幸福を祈らぬわけにはいかぬのだ。

「ちょ.....張コウ将軍!」

 昭は自ら声を励ました。

「張コウ将軍! 父上を大切に思って下さるお気持ちはありがたく思います! ですがそれとこれは話が別です!」

「どう別だというのですか?」

「じょ.....丞相の言われる通り、朝廷で重きをなす父に正妻が定まっていないのは、よくないことなのかもしれませんし、そ、それに.....

「それに?」

 するどい口調で張コウがつっこんだ。昭はわずかにたじろいだが、ぐっと息をつめると口を開いた。

「そ、それに、血のつながりはなくとも、母と呼べる人ができるのは.....私にとっても嫌なことではないのです。.....むしろ.....

「むしろ.....何です? うれしいことだとでも?」

「いや.....それは.....その.....

「昭ちゃんは、母親ができるのなら、どんな女でもいいとゆーのですか? そうなのですかっ?」

.....いえ.....その.....

 図星をつかれて押し黙った昭に、この時とばかりに反撃する張コウである。もはや大人げないとか、そういった類いの問題ではない。

「どうなのですかっ!昭ちゃん!」

「そんな.....そんなことは言っていません。ただ.....客観的に、やはり父上には正室が必要なのかなと.....

「そんなに必要なら、この張コウがなってさしあげます! この上なく美しい、この張儁乂がっ!」

「張コウ将軍は男性ではありませんかっ!」

「そんな瑣末なこと、気にしなくてけっこう!」

「ってゆーか、ふつう、ものすごく気になります! 大まじめな話なのですよっ!」

「私はいたってまじめに言っております!」

「よけいに問題じゃないですかーっ!」

「昭ちゃんは、私がママではお嫌なのですか?」

「ヒイィィ!」

「なにも悲鳴を上げることはないでしょう。失礼な方ですね」

「と、とにかく!」

 不毛な会話を打ち切るべく、司馬昭は声をはりあげた。

「此度のお話をお受けするにせよ、お断りするにせよ、それは父上がお決めになられることです! 私はその決定に従います!」

「なんと頑なな!」

「どっちがですか!張コウ将軍!」

.....わかりました。あなたはこの私の敵方に回るとおっしゃるのですね.....

 張コウがつぶやいた。ぞくりと背筋に寒けが走る。首の付け根から冷水を浴びせられたようだ。

「そ、そんなこと.....

「けっこう。障害が多いほど、愛は燃え上がるものです」

「あ、愛って.....

「昭ちゃんは、司馬懿殿のお決めになられたことに、従う心づもりなのですよね」

 ことさらゆっくりと張コウが言った。ひと言ひと言を確認するように。

.....はぁ.....あの.....私は父の意向に.....従います」

「そうですか。ならばけっこう。そのお言葉、よく覚えてらして下さいね」

 張コウの長い人さし指が、ヒタリと昭に突きつけられた。彼の手指はほっそりとしなやかで、長めにととのえられた爪までもが、艶やかに輝いていた。

 

 昨今、司馬懿は日々の生活のなかに、微妙な違和感を感じ取っていた。とりたてて、なにがどうだ、というわけではない。ただ何となく遠巻きにされ、観察されているような不可解な感覚であった。

 息子の昭も、一見常と変わらず、勤勉に学問と武芸に励んでいた。時折、史書の難題を質問しに来るのも、いつもと同じであった。

 だがその昭にも、微かな違和感を感じる。何か他に問いたいことがあるのに、あえて別の話題を選んでいるような、切り出せない事柄を、後ろに追いやって、いつでもかまわぬような問題を並べてみせているような、曖昧な感触を受けるのだ。しかし言葉にすらできない不明確な感覚を、相手に向かって問うようなことなどしない司馬懿である。

「今の部分の解釈、理解できたか」

「あ、は、はい。わかりました」

 昭がハッと顔を上げ、早口にそう言った。

「よい刻限だ。これまでにいたそう]

「はい。ありがとうございました、父上」

.....今日は所用あるゆえ、館には戻らぬ。他になければ、私はそろそろ昇殿するが」

「あ、はい.....

「どうした?」

 書を抱えたまま突っ立っている息子に、司馬懿は視線を投げ掛けた。

.....あの.....父上」

「なんだ。用件があるのならば早く言うがよい」

「あの.....い、いえ、なんでもありません!失礼いたしました!」

 それだけいうと、司馬懿がふたたび何か口にする前に、昭は小走りに出ていってしまった。

「なんだというのだ.....おかしなヤツめ.....

 筆を片づけつつ、つぶやく司馬懿。だが我が子のこととはいえ、基本的に、他者に注意を払うことの無い彼である。ましてやここは謀略張り巡らされる宮中でも、火矢の飛んでくる戦場でもないのだ。

 考えてもしかたのない疑問は、さっさとどこか遠くへ追いやり、司馬懿は昇殿の仕度にとりかかった。容量の計り知れぬ頭の中には、すでに次の戦の軍略が繰り広げられていた。

 

 ちょうど着替えを終えたころである。仕人が私室の外にひざまづいた。

「旦那様、お迎えが参られておりますが.....

 家令であろうか。年かさの男が恭しく告げる。

.....迎え? 私はだれも呼びつけておらぬが」

「は、はぁ.....ですが、庭先にてお待ちになられている御様子」

「何処の使いだ?」

 わずらわしげに司馬懿が問うた。一度で内容の理解できない報告を嫌うのである。

「も、申し訳ございません! おみえになられているのは張コウ将軍お一人でございます」

.....張コウ将軍が? 何の用.....

 どこまでつぶやいて、司馬懿は口を閉じた。ここで問うても返事は期待できそうにない。

.....よい。それでは次の間にお通しせよ。すぐに行く」

 司馬懿はそれだけ言った。手早く身支度をととのえ、最後に髪の乱れを撫で付ける。さっと鏡をのぞくと、後は早い足取りで私室を後にした。

 

.....張コウ将軍、入るぞ]

 ひと言声を掛けて、待たせていた室に入る。そこには見慣れた男の顔があった。

「司馬懿殿、ご機嫌よう」

 にっこりと微笑む張コウ。彼はたいそう整った目鼻立ちをしている。最もそんなふうに思っていることを、告げる機会など、司馬懿にありはしなかったが。

「今日はいかがなされた」

 司馬懿は手短に訊ねた。

「なにがですか?」

「何がとは.....急に迎えに来たりなど.....

 張コウの様子にも、どことなく常ならざる雰囲気を感じる。

 これまではうるさいほどにひっついてきたのに、ここしばらく顔を見せなかったのだ。それが今日、久々に私邸まで訊ねてきたのだ。それもいきなりの来訪。司馬懿が、どうしたのかと、訊きたくなるのも無理からぬことであった。

「迎えに来てはいけませんか?」

 さらに笑みの色を濃くして、張コウが言った。

「いけなくはないが.....

「ではよろしいではありませんか。これからご登城なさいますのでしょう。ご一緒しましょう」

「あ、ああ」

 なぜか張コウのペースになっている。

「それにしても.....いつもこちらのお屋敷は、落ち着いていらっしゃること。とてもよい雰囲気ですね」

「そうか」

「ええ、やはり家人によって、邸の雰囲気は変わりますからね」

「そうなのか」

 司馬懿は凡庸な返事をくり返した。

「ええ、そうなのですよ。住む方の人間性が表れるのです!」

「そうか」

「そうです!」

 張コウの語気が強まった。

「ここは司馬懿殿のお屋敷! あなたがあなたのままの自然体でおられれば何ら変わりなく、穏やかな毎日が約束されているのです!」

「は.....はぁ? 張コウ将軍.....なにが言いたいのだ?」

.....おわかりになりませんか?」

「ここ最近、貴公はおかしいぞ.....しばらく姿を見せなかったと思えば、急に迎えに来たり.....私の邸がどうのと.....まったく貴公の意図はつかめぬ」

 司馬懿は面倒くさそうにそう言い返した。