夜明け前
<1>
 
 
 曹 丕
 

 
 

「曹丕! 曹丕っ!」

 私の名をこの城で、堂々と呼び捨てに連呼する男はひとりしかいない。

 日の本の国からやってきた男……石田三成。

 頭は切れるがやや神経質なタイプの輩であった。

 ああ、日の本の国……とは、我らの生きる場所とは異なる外っ國。海を挟んだ小島を指すのだが、そういう言い方をすると、『もののふ』共が怒るので口に出すことはない。

 

 遠呂智が我らの世界を蹂躙して早数ヶ月……

 我らが三国の世界と彼ら小島の世界が融合し、まったく新たな時空を生み出した。遠呂智のもつ摩訶不思議なその力で……

 ここは三国の世界に在り、また在らず……この居城は間違いなく私の城だが、存在する世界は異なるのだ。

 ……そう、あたかも『その部分だけ』巨大な指先でつまみとられ、異なる場所に植え込まれたかのように。

 

「曹丕ッ」

 客人用に宛がった間から、ふたたび鋭く私を呼びつける声がした。ため息混じりに部屋の扉を開ける。

「何用だ、三成」

 いかにも神経質そうな印象の線の細い男……髪も瞳も色味が薄くなよやかに見えるが、気性はひどくきつい。今も切れ長の双眸をきりきりとつり上げている。

 険しげに寄せられた眉、指の長い白い手などは、もともと痩せ形であったくせに、ここ数日まともに食事を採らないせいか筋張っていた。

「曹丕……なんだ、居たのか?」

「おまえが呼んだから来たのだろう」

 そのままを口にすると、彼はさらに確認した。

「今、隣室に居たか?」

「……ああ」

「そうか……ならばいい。となりの部屋に居ろ。特に夜は勝手に離れるな」

 まさしく自分『勝手』な要求を何の躊躇もなく口にする輩だ。

 私が適当にうなずき返すと、三成はやや不満げな面持ちにはなったものの、ふたたび座臥に伏した。常人よりも色素の薄い髪が、白い敷布に無造作に広がった。

 ……私自身、曹操の嫡男として育てられた故、己が有り様を自己中心的で主張が強いという自覚はある。実際、伯父上たち……夏侯惇や夏侯淵などはそのように思っているだろう。

 だが、彼のように、自己の欲求をあからさまに口に出すことは控えていた。……周囲への配慮ではない。『我が儘な青二才』と知らしめることによる弊害のほうが大きいからだ。

 ……特に得体の知れぬ輩に取り囲まれた今現在は。

 

 この居城の近くに、遠呂智は居る。           

 古志城と呼ばれる魔窟で、己が生み出した暗黒の世界を牛耳ろうとしている。時代と国家を超えた英傑もろともに。

 わずかここ数ヶ月で、三国で覇を争っていたのが遙か過去のように感じる。蜀の劉備はもはや生死さえもわからぬ状況だし、孫呉の敵対派は多くを捕縛された。捕縛されていないのは孫策と軍師の周瑜だけだという。

 そして我ら曹魏は遠呂智の幕下に降ることになり、その命脈を保っている。

 ……『今は』だ。

 








 

「曹丕っ!」

 さらに苛立ちを増した声音に、私は致し方なく戻りかけた足を彼のほうに向けた。

「……おまえの城は居心地が悪いッ」

「…………」

「だだっ広くて冷ややかで……不快だ!」

 どうにもしようのない事を言われて、私はため息を吐きだした。ヒステリー状態にある輩に苦言を呈しても無意味どころか、状況は悪化するだけだろう。

「広くて……どこに何者が居るかもわからず……落ち着かぬ……!」

「……そうか」

「おまえはそうではないのか!?」

「……幼少の頃より、こういった城で生活してきた。不自由はない」

 私の物言いが気に入らなかったのか、彼は細い柳眉をきりきりとつり上げた。

「遠呂智の軍勢が不快なんだ。不気味な鬼や気色の悪い化け物ばかり…… あの連中を見ていると、気が変になってくるッ」

「…………」

「普通の人間はおまえと俺のわずかな手勢だけだろう……!」

 そう……遠呂智によって分かたれた世界。

 たまたま偶然にも同じ場所に飛ばされたのが、我らだったのだ。我が手勢の中には張遼と典韋という豪傑二名が共に合ったのは不幸中の幸いというべきだろう。

 だが、日の本の国……三成の棲まう世界からは、彼一人のみ。それがよけいにこの男を不安に陥れているのだろう。普段は気丈に振る舞ってはいるものの、孤独を恐怖しているのが見て取れる。

「悪鬼どもの姿など、視界に入れたくない!」

「……そうだな、同感だ」

「だから……! おまえはなるべく近くに居ろ。互いのためだ。俺を苛立たせるな!」

「わかっている」

 そう応えてやると、激した態度を後悔したのか、彼は頭からバッサリと布団を被り横になった。

 音を立てずに扉を閉じ、私は自らの私室として使っている部屋へ戻った。

 客人の三成にあてがった部屋の隣室だ。

 彼のようにすぐに眠る気分ではなく、双眸を綴じ合わせ瞑想する。

 

 ……父よ。

 気高く、巨大な覇王、曹孟徳よ……

 貴方は本当に死んだのか……? 遠呂智との戦いの中で姿を消した……そんな報告しか聞いていない。

 貴方が…… 乱世の奸雄が…… このような形で命を落とすか……?

 綴じ合わせた瞼に、亡き父の面影を映し出そうと試みたが、その姿は思いの他にぼやけていて我が父とは思えなかった。