夜明け前
<2>
 
 
 曹 丕
 

 
 

「曹丕さ〜ん」

 なまめかしい女の声で、私の瞑想はやぶられた。不快に遠慮なく眉をひそめたが、やってきた女は何の痛痒も感じないらしい。

 ……妲妃。

 遠呂智の参謀といったポジションにいる女だ。もっとも三成などにいわせれば、『あの程度の女を参謀などと呼ぶな』ということらしいが。

「……何用だ。用件があればこちらから赴くと伝えたはずだが」

「堅苦しいことを言わなくてもいいじゃな〜い? アタシたち、仲間でしょう?」

 ……猫なで声に反吐が出る。

「私と遠呂智は盟友同士。それ以外は知らぬ」

「相変わらずねェ。お父様を殺されたのがそんなに不愉快だったの?」

「…………」

「まぁ、仕方がないじゃない。遠呂智様に剣を向けたんだから。それにあなたにとってだって大きな壁だったんじゃない?」

「……他になにか言いたいことは?」

「あらら、怒っちゃった?」

 クスクスと隠微な忍び笑いをもらす女に、私は今度こそ不愉快さを隠すことなく、退室を促した。

「来所の用件を聞こう。用事がないのなら早々に引き取ってもらいたい」

「つれないなァ。妖魔とはいっても可愛い女の子が夜に訪ねてきてあげたのにィ〜」

 そう言ってしなだれかかってくる雌猫。

 本心では人間の男など相手にするつもりは、まるきりないくせに……退屈しのぎでのからかいは不愉快以外の何ものでもなかった。

 人間の肌と変わらぬ細い腕が、蛇のように腕に絡みつく。相手をしてやるつもりなど毛頭ない。

 ……だが、こ奴は遠呂智の腹心なのだ。力尽くで追い払うわけにも、暴言を放ちて邪険に扱うわけにもいかなかった。

「曹丕さ〜ん、退屈なのよねェ。話相手くらい……」

 気色悪い女の声が耳元に忍びこんできたとき……ふいに静寂が破られた。

 パシーンという、引き戸をたたきつける音で。

「曹丕ッ! 何をしているッ!」

 ものすごい勢いで怒鳴りつけられ、さすがの私も息を呑んだ。

 ……いや、何をといわれても困惑するのだが。

 私はただ座臥に座っているだけだ。

「……いや、別に」

「別にではないだろう! ……妲妃殿、もう夜も更ける。早々にご自分の寝所へ戻られよ」

 氷のような冷たい声で、三成は彼女を睨め付けた。

「あらら、三成さん、お邪魔虫〜」

「曹丕ッ!」

 私に怒鳴られてもどうしようもないのだが。

「……すまないが、これから三成と策の打ち合わせがある。遠呂智のためにも、呉の残党を確実に討伐するのは肝要かと考えるが」

「うん、そうね。ま、そういわれたら仕方ないわねェ。また今度遊びましょ、曹丕さん」

「…………」

「それじゃあ、お城へ帰るわ。おやすみなさい、お二方」

 一応頷きを返した私とは対照的に、三成のほうはあからさまに彼女を無視した。……いささか子供っぽく感じるくらいに。

 

 

 

 

 

 

 妲妃が出て行くと部屋に静寂が戻った。

 ようやく慣れ親しんだ自室の雰囲気に……

 だが、乱入してきた三成は、その場に突っ立ったまま、動こうとしない。

「……騒がせたな。部屋に戻って休んでくれ」

 当たり障りのない物言いで、静かに彼を促した。……これ以上面倒にならぬように。

「…………」

「……三成?」

「……策を練るのではなかったのか?」

 独り言のように

「あれは方便だ。……あの女に早々に引き取って欲しかったのでな」

「だったら室内に招き入れねばよかろう!」

 今風にいうなら女人のヒステリー……だろうか。イライラをそのままぶつけてくる。

 ……大分精神的に参っているのだろう。もとの世界になら懇意にしていた友や、家臣らが居ただろうが、この地にあってからは、彼はひとりきりなのだ。

「施錠する習慣はなかったのでな。勝手に入ってこられてしまった。……まぁ、妖魔に鍵の有無など関係ないのかもしれぬがな」

「……い、嫌なことを言うな」

「フ……寝首をかかれる心配は無用だろう。連中にとってはまだ我らは利用できる駒のはずだ」

「…………」

「おまえもそういう見立てだろう、三成」

「……気持ち悪い」

 彼はそのまま両腕を抱え込むようにして身震いした。悪鬼らへの気色の悪さと……寒さもあったのかもしれない。 

 彼は白い袷の夜着一枚でその場に突っ立っていたのだから。

「曹丕。俺はここに泊まる」

「……は?」

「この部屋で寝る。おまえもそうしろ」

「……もともとここは私の私室なのだが」

 言っても無駄だと想ったが、一応確認しておいた。

「知っている。ここで寝る」

 そういうと彼は、さっさと私の寝台に潜り込んでしまった。さきほどの場所よりもずっと落ち着けると言わんばかりに、堂々と……