夜明け前
<4>
 
 
 曹 丕
 

 
 

「夏口に罠を張る……?」

 私は三成の言葉を反復した。

「ああ、呉軍の残党を迎えに船が寄港すると聞いた」

「…………」

「残党の敵大将は孫策といったか……その者については、俺よりおまえのほうがくわしいだろう」

「孫家の長男だ。江東の小覇王と異名をとる剛の者だな」

「へぇ……」

 多少なりとも興味を持ったのか、三成の色味の薄い瞳がわずかに見開かれた。

「……そうか……孫策が…… となると迎えというのは……」

「ごちゃごちゃ言ってるな。知っていることがあるのなら、軍師たるこの俺にまずは話せ」

 偉そうに言ってのける三成に、配下の張遼と典韋はハラハラと困惑しつつ見守っている。人ごとではないのだが、ひどく可笑しい。

 これまで彼らのそんな様子を目の当たりにすることはなかった故……

「おい、曹丕!」

「ああ。おそらく孫策の軍を迎えにやってくる水軍の指揮官は周瑜だな。……おまえも書物で彼の名くらいは見知っていよう」

「知らぬ!」

 即座に否定する石田三成。

 そのあからさまな態度が、孫呉の天才軍師を意識しているのだと見て取れる。

「……いずれにせよ、軍師・周公瑾は有能な人物だ。いささかやっかいではあるが」

「……厄介? おまえがそういうほどの武将なのか?」

「なんというか……優れた軍略家であるはずだが……その……私はあまり得意なタイプの人間ではない」

「嫌いなのか?」

 ストレートな三成であった。

「……そういう意味合いではない。むしろ人柄は好もしいと感じる」

「ほぉ、おまえが他人に対してそんな物言いをするのを初めて聞いたな!」

 彼はやや嫌みっぽく、大げさに嘆息した。私はそれを無視して言葉を続けた。

「よい人物と感じることと、その人物との交際が楽か否かは別の問題だ。……希代の軍師と呼ばれるが……なかなかに難しい」

 私の言葉を耳にした張遼と典韋が、笑いをこらえるような咳払いをした。彼らも周公瑾が我が国にやってきたときに面識があるのだ。

 人との交わりが多いふたりゆえ、きっと懇意にしている夏侯惇や夏侯淵、それに張コウあたりから聞いたのだろう。

 ……仲達は軽々しく物を言う輩ではなかろうし。

「それはそれは! 是非、私も目通りさせていただきたいものだ!」

「……何を怒っているのだ、おまえは……」

「別に。気のせいではないのか!? それより、軍議だ! 此度の戦、指揮官はおまえだ、曹丕。どうせ妲妃らは茶々入れに参るだろうが、戦力としては数えぬつもりだ。……まったく忌々しい!」

「……そうか。それは好機……」

「ああ?」

 首をかしげて鬱陶しげに問いを返す。

 整った面持ちをしているくせに、態度がふてぶてしい輩だ。そのせいでずいぶんと損をすると思うのだが……三成の近侍は苦言を呈したりはしないのだろうか?

 

 

 

 

 

 

「『好機』だと言ったのだ」

「……どういう意味だ?」

 訊ねられて、すぐに答えるのははばかられた。

 ここは私の城……少なくとも現在、妲妃らの手の者は居らぬはずだが……

 張遼と典韋のふたりに目配せをしてから、三成を促した。短気な面倒くさがり屋だが、察しはよい男だ。

 無言のまま軍議の間から続きの小部屋へ移動する。簡単な茶器や卓子しか置いていない簡素な部屋だ。

 ……つまり間諜が忍び込める空間もないし、いかにすぐれた密偵といえど、この場で気配を殺すのは難しい。完全な密室なのである。

 扉を閉めると同時に、三成が問いかけてきた。

「何なんだ、曹丕。早く言え」

「……待て」

 張遼と典韋が、扉の前に陣取るのを確認してから、改めて彼に向き直った。念のため小窓の外も一通り見回す。

 ……ようやく最近はしつこく監視がつくこともなくなった。まさしく『好機』だ。

「大丈夫のようだな」

「ずいぶんと仰々しいな」

「……万一ということもある、警戒してしすぎるということはない」

「おい、曹丕。おまえ……何をするつもりだ」

「聞け、三成。……残党軍の大将・孫策は逃す……不自然にならぬよう策を練ってくれ」

「……曹丕、おまえ……」

 そう言いかけた三成は、決してひどく驚いたり動揺したりしている風には見えなかった。おそらく、私の側近くに居る間に、こちらの思考を感じ取っていたのだろう。気は難しいが明敏な男なのだ。

「周瑜が軍船で迎えに来るなら好都合。上手く船に乗せさえすれば、追っ手に捕縛されることもあるまい」

「…………」

「遠呂智に反旗を翻すには、未だ時が満ちぬ……時間を稼がねばならん」

「…………」

「孫策は使える駒だ。いや……正確には呉の残党の軍が……というべきか。武闘派で名を馳せている孫策と、知将の周瑜が反遠呂智勢力として動いてくれれば、いざというときにやりやすい」

「……必ずしもおまえの思惑通り、その孫呉とやらの連中が動くとは限らんぞ」

「かの国の兵士は結束が堅い。また孫家の者どももな。故に孫策と周瑜さえ、我が意図に気づいてくれさえすれば……」

「だから! そこが不透明だと言っているのだ」

 覆い被せるような三成の言葉を受け流してから、改めて言を紡いだ。