夜明け前
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 曹 丕
 

 
 

 早朝。

 その日はめずらしくも、蒼天澄み渡る日よりとなった。

 遠呂智が、我々の大陸と日の本の島々を、括り付けたこの不可解な世界。

 天候までもきゃつらの醜く不快な内側を反映するのか、じとじとと雨の降る日が多かった。三成のように神経の細い人間でなくとも、長くこの環境にいればどうにもたまらなくなるのは当然のことだろう。

 それゆえ、今日の天候は久々に、心晴れる気分だ。

 

「……久方ぶりの好天気だな。少しは気分もよかろう」

 私は傍らで軍師然と腕組みしている男に話掛けた。もちろん、石田三成だ。

「どこがだ! 言っておくが、貴様の言うとおり、孫呉の頭領とやらを逃がさねばならぬのだぞ! しかも、遠呂智の手勢に怪しまれずにだ。このようなときにこそ、霧雨でも降ってくれればよいものを……!」

「…………」

「まったく、厄介なことだな! なにもかもが、俺の期待を裏切ってくれる!」

 いらいらと扇子を片手に打ち付け、三成は毒づいた。

「……まぁ、落ち着け」

「俺は落ち着いているッ!」

「……そうか。では気持ちを静めよ、三成」

 私は主旨は変えず、言い方を変えた。

「我らは軍師である、おまえの計画通りに事を運ぶ。……安堵せよ」

「…………」

 それでも、私の物言いが気に入らなかったのか、彼は口を噤むと、じろりとこちらをにらみつけてきた。

 ここで、理由を問うても、さらに激昂するだけだろう。

 私は気付かぬふりを決め込んで、沈黙を守った。

 

「……言っておくが、危険なのは孫呉の将とやらだけではない。おまえだって危ないんだぞ」

 わずかな間隙の後、さきほどよりはずっと押さえた声音で、三成はつぶやいた。

「…………」

「顔も知らん呉の将なぞのことは、正直たいして気になってはいない。だが……おまえは……」

「……ほぅ……私の身を案じてくれるのか」 

 今度こそしっかりと目線を合わせて問い返した。別に茶化したつもりはなく、彼が自分の策に不安を抱いているのかと感じたので訊いたのだ。

 実際、三成の策は非常に良くできていた。仲達の考えるものと似通っている印象もある。

 つまり、遠国の軍師は、この大陸で名を馳せた司馬懿と、同等の力量をもっていると目されるのだ。

「ふふ……めずらしいこともあるものだな」

「……なんだ、それは?」

 唐突に三成の声が剣呑に変わった。

「俺がおまえのことを心配しちゃおかしいか? 変か!? それとも、俺に案じられるのが不愉快なのかッ!?」

 突然の怒鳴り声に、軍の演習を指揮していた張遼やら典韋やらが、こちらに注意を払う。

「誰もそんなことは言っていないだろう。だが、少々意外に感じただけのことだ」

「意外に感じた? どういうことだ? 策を立てたこの俺が、まったくおまえの身を慮りもしないと……そう思っていたのか!?」

「……三成。声が大きい。兵の気を散じてしまう」

 声のトーンを落として、難しい軍師殿を宥めた。だが、彼は青白い頬をカッと上気させると、

「もうよい! おまえも孫呉の将とやらと一緒に、周公瑾なるもののところへ行ってしまえッ! 何も好きこのんで気の合わぬこの俺と共に在る必要はあるまい! まもなく進軍の時刻だ。さっさと準備しろッ!」

「……三成……」

 呼び止めた私を無視し、さっさと踵を返すと日陰のほうへ歩き去ってしまった。

 

 

 

 

 

 

「若殿……お疲れさんでござんす」

「あー、今日は暑いですからな。体調でもお悪いのかも知れませんな。線の細い方ですし」

 典韋、張遼の順番で、私に気遣いの言葉を掛けてくれる。

 もはや私は、三成の気性には慣れているので、さしてストレスにもならないのだが…… 父の腹心であったふたりは、嫡子の私にも気遣いをみせる。

「気遣いは無用だ。……そろそろ頃合いだな。我らも準備をいたそう」

「へぃ! 合点です。あっしは斥候をまかされておりやすんで、すぐに出ます!」

 ガッと巨斧を肩に持ち直し、さっそく典韋は走り去っていった。さきほどから十分練兵を繰り返していたのは、典韋の軍だ。

「拙者の仕事は陽動です。せいぜい大げさにあばれてやる所存…… どうか、曹丕殿も十分お気を付けて」

 落ち着いた口調で張遼が言った。

「ああ、わかっている。……三成のいうとおり、危険はもとより承知の上」

「ははっ! ではご武運を……」

 きちんと拱手をすると、彼もまた即座に踵を返した。

 まさしく一騎当千といった風格の張遼。だが、その立ち居振る舞いは、葉が地に落ちる音が聞こえてきそうなほどに静謐だ。

 後世、泣く子に「張遼が来るぞ!」と脅す輩がいたそうだが、それは彼の本質を半分も理解していないといえよう。

 戦場での苛烈な戦士は、平時はこの上なく物静かな武人なのである。

 

 さんさんと降り注ぐ陽の光に片手をかざし、そっと吐息する。

 今はまだ、遠呂智の軍勢を敵に回す準備はできていない。きゃつらに怪しまれず、孫策を逃がすのはまさしく至難の業だろう。

 ……下手をすれば、迎えに参じた周公瑾すらも危険にさらすことになる。それだけは避けねばならぬ。

「さて……準備をするか……」

 独りごち、私室にとって返したのであった。