夜明け前
<7>
 
 
 曹 丕
 

 
 

 

「全軍……! 整列!」

「オォォォォ!」

 威勢を上げた我らが軍勢。好天候の中、出陣するのは久方ぶりだ。

「曹丕さぁん、がんばってねェ〜!」

 と、不快な声が飛んできた。もちろん、妲妃のからかい声であるが、私は完全に黙殺した。

 妖魔は陽光が苦手……というのは、あながち嘘ではないのかもしれない。

 孫呉の残党を処分するという、地味な仕事ではあるが、妲妃も行軍するつもりはないらしく、遠呂智に至っては顔を見せることさえしなかった。

 だが、それは好都合というものだ。

 

 私は愛馬の手綱を取り、軍の先頭に躍り出た。

 このまま、予定通り孫策と対峙する行軍を行う。我が手勢は、ほとんどが曹魏の者であるが、一部妖魔の手の者も混じっている。もちろん下っ端ではあるが。

 戦闘が始まれば、まずはその者らを消し去り、三成の策に乗っ取って、孫策を湾岸部追い詰めねばならない。

 

「……丕! 曹丕……ッ!!」

 きりきりと気を張り詰めた声が背後から追いかけてきた。軍師の三成は私と同行するつもりらしい。

 確かに最も肝要なのが、孫策を湾岸部に追い詰めるという仕事であるゆえ、私の軍に着くのはよい判断だと思うが。

「曹丕……ッ!」

「聞こえている。おまえは我が軍に同行するつもりか?」

「先日もそう言っただろう! それより……」

「かなり危険が伴う。護衛は付けるが表には出るな。いいな?」

「わ、わかっている! だが、私だとてこの程度の戦場は何度も……」

「おまえは唯一の軍師だ。身を大切にせよ」

 きちんと目線を合わせてそう言い聞かせると、未だもごもごと口を動かしていたが、こちらのいうことに納得はしてくれたらしい。

 それでも行軍に同行するという意志は変わらないようだが。

 

 

 

 

 

 

「ではこれより出陣する……! 一同気勢をあげよ!」

 斥候の知らせを受け取り、いよいよ行軍開始だ。こうした形で軍を動かすのは久方ぶりだ。遠呂智の手先もわずかに後に着いてきてはいるが、ほとんどが私の正規軍。

 やはり気分がよいものだ。

「曹丕……ッ! お、おい、おまえ!」

 わずかに進んだところで、三成の声が背中から追ってきた。

 ……何故にこの者は人の言いつけを聞けないのだろう?

 白馬の手綱をとり、私のとなりに駆け寄る三成。さきほど表に出るなと、言い置いたのに致し方がない輩だ。

「……三成、大声を上げるな。まだ敵軍と対峙していないとはいえ、気を抜くな」

「わ、わかってる! だ、だが、おまえ…… か、髪……! その髪はどうしたのだッ!」

 それこそ、頭から叩き付けるように叫ぶ三成。

 

 ……髪……

 確かに、先に私室に戻ったとき、私は手近な小刀で長い髪を切った。

 万一、孫策と会話しているのを遠呂智の手先に見られたとき、私だと気づかれにくくするため。もうひとつの理由としては、単に邪魔であったのだ。

 

「……切ったのだが」

 私は端的に答えた。

「そんなの見ればわかる! いつ……!? どうしてわざわざ切る必要があったのだ……!?」

「……? なにを大騒ぎしている」

 不審のまなざしを向けると、ヤツはうっと言葉につまり、目線を逸らせる。

「べ、別に俺にとってはどうでもいいことだ! だ、だがあんなに長かったじゃないか! なにも切る理由など……」

「おまえの国では、かように散髪というのが重大事に見なされるのか?」

 女人ならばともかく、男が髪を切ろうが伸ばそうが、さしたる問題はないと思うのだが。

「そ、それは…… そうだ。男子は容易に髪を切ることはない。僧籍に入る場合や……」

「生憎私は坊主になるつもりはない。……ただ単に暑苦しかっただけだ。それに人に見られたとき、私だとすぐに気づかれぬように……」

「なにも……なにもそこまでする必要はなかろう!? せっかくあんなに長く伸ばしていたのに……!!」

 彼は非道く憤慨しているように見えた。だが、私からは、その怒りのポイントがよくわからないのだ。眉をひそめる私に、彼は覆い被せるように言葉を重ねた。

「先日も髪を結うのを、恐れ多くもこの俺様が手伝ってやったではないか!」

 ……昨日、湯浴みを終えた後、髪を縛るのを手伝ってくれたことか。

 別に必要ではなかったが、彼のほうからブツブツなにやら言いかけてきて、勝手に櫛と髪ひもをいじっていったのだ。

 三成は彼個人の自室を与えられているにもかかわらず、遠慮無く私の部屋を使う。何の断りもなく入室してくるし、私がしていることの邪魔もする。

 もっとも、『邪魔』とはいっても、ささいなこと…… 

 さきほど述べたように、身繕い中にちょっかいを出してきたり、寝付けない夜などは一方的に会話をしにくる。

「……三成。おまえはそのまま切らずにいればよいではないか」

 ため息混じりにそう告げた。

 これから重大な仕事をこなすのに、あまりにもどうでもよいことに感じられたからだ。

「ああ、そうする! 私の髪はきちんと手入れしているからな! 無神経なおまえとは異なる!」

「そうか。……では、そろそろ軍の中腹に戻れ。人目につかぬよう、ゆっくりとな」

 私がそう言いつけると、彼はひどく不満そうに頬を上気させ、苛立ちをあらわに護衛と共に引っ込んでいった。

 ……やれやれ、日の本の国での、彼の側近は、日々さぞかし苦労をしていたことだろう。

 

 ……孫伯符よ、貴様はどこにいる。

 早く姿をあらわすがよい。雌伏の時を見極めよ…… 今は迎えに来ている孫呉の軍師とともに、力を蓄えるときだ。

 

 馬の腹を蹴ると、私は軍の先頭に向かった。