夜明け前
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 曹 丕
 

 
 

 

 典韋率いる少数の斥候が、孫伯符を単騎発見したのは、私にとって僥倖というべきであろう。

 即座に早馬から情報得、手はず通り湾岸部へ誘導したらしい。

 私は副官に行軍を任せ、三成を伴いつつ、合流地点へ急いだ。

 

 軍師を伴うことによって、行軍から離れる。

 ……いかにも、なんらかの策を仕掛けるためといわんばかりだろう。

 頭の回転の遅いオロチの手先共を瞞すには適切な方法だ。

 ……とはいうものの、できることならば三成には控えていてもらいたかった。

 理由は単純である。

 ……危険だからだ。

 

 我らが曹魏は、三国の同盟に反し、唯一明確にオロチ側の布陣に加わったと目されている。事実、これまでの行動はそのとおりであった。

 我が城にオロチの軍団を引き入れ、残ったわずかばかりの将兵をオロチに提供した。もっとも、差し出すという形ではなく、オロチの命に従い、私が動かすということではあったが。

 蜀は猛将が捉えられ、ほとんど瓦解した状態だ。……劉備らはどこかに落ち延びられたのだろうか?

 呉は孫家の主だったものらが、オロチに下った。孫策のみがそこから逃げ出したのだ。そして、周瑜率いる幕下の者らが主家を救い出すために奔走しているという構図である。

 

 つまり、蜀・呉、共に、我らが曹魏を目の敵にしているのは、いかんともしがたい事実なのだ。

 そんなところに、孫策と同行する形で我らが姿を現せば、血の気の多い孫呉の将が黙ってみていられるだろうか? 理由の如何を聞く前に、弓の標的にされてもおかしくはない。

 私はそのような場所に三成を伴いたくはないのだ。

 鉄扇で闘う三成は、それなりの戦闘能力はあるが、パワーとスタミナはおせじにも上等とはいえなかろう。やはり仲達と同じタイプ…… 武官ではなく、参謀であり、文官なのだ。

 

 ……頼みの綱は周公瑾だ。

 彼が最初から、我々の前に姿を表してくれればよいのだが。あの人物については、予想をするのが不可能なのだ。

 孫策と彼が、我々を信用してくれさえすれば、この計画は大幅に進捗する。

 

 

 

 

 

 

「なんだ……曹丕。しかめつらをして」

 ひどく不快げに三成が言った。自覚がないようだが、こういう口調で詰問してくるときは、こどものように口を尖らせているのだ。

「気を抜くな。そろそろ脇道をゆく、孫策に遭遇するぞ。……向こうは必死だ。出会い頭に斬りつけられる可能性が高い」

「わかっている! だが、おまえがいるだろう。軍師を守るのは長たるものの役目だ」

「…………まぁ、そのつもりではいるが」

「…………」

「…………」

「なんだ、その間は! だいたい、貴様は……」

 三成の言葉は最後まで続かなかった。私が馬の手綱を強く引きよせたからだ。

「うわッ!……そ、曹丕ッ?」

「うりゃあぁぁッ!」

 三成の悲鳴に、虎の咆吼のごとき覇気が重なった。

 ヒュンと風を切る音が、顔面すれすれのところを通り過ぎて行った。

「オロチの元に下り、同胞を手に掛けるクズ野郎どもがァァ! 江東の小覇王が引導を渡してやるぜ!」

 目視できぬほどのスピードで、トンファーの軌跡が空を舞う。

「待て、孫策」

 私はするどく低く、彼を制止した。だが、孫策は聞く耳持たぬ。曹魏憎しで、すでに頭に血が上っているらしかった。

「すかしてんな! この糞ボンボンがァ! 日ノ本の国の輩まで手玉にとっているのか……! 相変わらず賢しい男だなッ!」

 ……そうだな。

 おまえのように、頭の中身まで筋肉でできている男よりは、私の賢しらだろう。

「うりゃあぁぁ!」

 トンファーがふたたび顔面を襲ってくる。私は剣の柄でそれを抑え、横に振り払った。

 トンファーという武器は攻守ともに、優れた獲物だ。手首の回転運動によって、「打つ」「突く」「払う」「絡める」という様々な戦闘手段が選択できるのだ。

 握り部分を持った状態では、自分の腕から肘を覆うようにして構え、空手の要領で相手の攻撃を受けたり、そのまま突き出すなどして攻撃することが可能。

 逆に長い部位を相手の方に向けて、棍棒のように扱う事も出来る。

「この野郎! ぶっ殺してやる!」

「……三成、下がっていろ」

 三成は、あっけにとられた様子で、突っ立っていた。例えるならば、出会い頭にイノシシとぶつかったような感覚なのだろう。孫策は呉においては、主家のあととりだ。そう説明してあったのが、かえってよくなかったらしい。

 三成の中で確率されていた、嗣子・孫策像ががらがらと崩れ落ちてゆく音が聞こえるようだった。

 

「おい、坊ちゃん! かかってこいよ、この野郎ッ!」

 ひたすら身を躱し、攻撃を受け止める私に、苛立った口調で孫策が叫んだ。

「……落ち着け、孫策」

「なぁにが、落ち着けだ! ここで会ったが百年目だぜ! 俺は貴様の首を手みやげに周瑜んとこに帰るぜッ!」

「話を聞かぬか、この単細胞が……ッ!」

「うるせー! 命乞いなら、もう遅いぜッ!」

 ふたたび、間合いをとり、弾丸のように突っ込んでくる孫策のトンファー。それを間一髪のところで避けたところ……

 ベシッというにぶい物音が、耳に入った。それはあまりに緊張感のない……場違いな物音に聞こえたのだが……

「この粗暴で下賤の輩が……!」

 吐き捨てるように三成がつぶやいた。

 あの物音は、三成の投げた扇子が、孫策の額にヒットした音だったのだ……