夜明け前
<10>
 
 
 曹 丕
 

 

 

「孫策、待て! さきほどの話を早急に伝達せよ!」

「え、あ、そうか! 悪い悪い」

 ……どこまで粗忽者なのだ、この男は。

「あのな、周瑜……」

「あ〜〜〜〜っ!!」

 話しかけた孫策の言葉を、周瑜の叫び声が遮った。

「お、おい、周……」

「曹丕さまだッ! 曹丕さまっっ! やっぱし、曹丕さま、ご無事だったんだね! 曹操さまの御子だもんね! 曹丕さま、大丈夫!? 怪我、ない!? 待って、周瑜くん、降りるッ!」

「お、おい、ちょっと待てよ、周瑜、そんな時間もねぇし……」

「策、どいて! 策は自分だけ助かったらそんでいいの!?」

「いや、だから……」

「どいてよ、策のバカッ! 曹丕さまのトコ行くんだからっ!」

 力任せに孫策をふりほどく周瑜。 

 私も彼を止めようと、声を掛けたが彼が船から下りてくるほうが早かった。付き人(?)の呂蒙という将軍が、後を追ってダカダカと走ってくる。

「曹丕さまッ! よかったぁ〜ッ!」

 大都督という身分……そして、主家の嗣子である孫策の乳兄弟という血筋……どれをとっても、いやしからぬ立場を持っているのに、彼の感情表現はあけすけだ。

 今も、私の一間ほど向こうから、跳ねて抱きついてきたのである。

 

「……周大都督、久方ぶりだな」

 私はそっと彼の手を外しながら、声を掛けた。

「うんっ! よかった、曹丕さまが無事で! 魏の人たちは遠呂智に捕らえられたって聞いていたから……」

「……貴公は、様々な事象をよいほうに考える人柄であったな」

「え?」

「我ら、曹魏は遠呂智の手先と目されていることであろう。三国同盟を裏切り、敵方に付いたと考えられているはずだ。……実際、そのように動いている」

 私は静かにそう説明した。背後からの強烈な視線を感じるが、三成が周瑜を検分しているのだろう。

「えー、あー、なんかそんなふうに言ってる人たちもいるみたいだけどぉ〜」

 語尾を伸ばした独特の物言いで、周瑜は言葉を続けた。

「でもね、周瑜くんはそんなのひとっつも信じなかったよ!曹丕さまのことをよく知ってるんだから! 頭のいい曹丕さまのことだから、きっとなにかお考えがあるんだとそう思ってたよ!」

「あ……ああ。そうか……」

 面と向かってそう言われては二の句が継げなくなる。

 ガラでもないが、つい頬が緩むのを感じた。『笑う』というところまでは言っていないが……

 

 

 

 

 

 

「曹丕ッ! デレデレするな! 時間がないのだろうッ!」

 ヒステリックな呼び声に、私は想わず額を抑えた。

 別に三成の存在を忘れていたわけではないのだが。

「……わかっている。周大都督、時間がない。今後のことについて話をしておきたい」

「うん! じゃ、いっしょに行こう!」

 屈託のない笑顔で微笑まれ、袖口をひっぱられてしまう。だが、今はまだそのときではないのだ。

「そうしたいところだが、我が配下も取り残された者どもも、未だこの地に多くいる。遠呂智の軍勢もだ。今はまだ貴公らとともに行くわけにはいかぬ。……その辺りの策については、この者が……」

 殊勝にも紹介されるまで黙して待っていた三成を、私は周瑜に引き合わせた。

 

「この人だあれ? 曹丕さま」

「……! 人に名を尋ねるときは、自ら名乗るのが礼儀であろうッ! 曹丕ッ、本当にこの者が、史書に名高い孫呉の大都督なのか!? あの赤壁の……」

「まさしく、孫呉の水軍総司令官であり大都督の周瑜殿だ」

 三成の強い口調を抑えるように、静かにそう答えた。

 

「……貴様が孫呉の……」

 値踏みするような目つきで、三成がつぶやいた。最初からわかっていたことだが、周公瑾と三成は、同じ軍師といえど、まるきり異なるタイプだ。

 あけすけで素直な周瑜どのと、人見知りが激しく繊細な三成。水と油のようなふたりが上手く混じり合うとは思えないが、軍師同士として知恵を出し合ってくれればいい。

 

「……石田三成だ。今は曹丕とともにこの地に在る」

 横柄に三成が言い放った。

「周瑜……あざなは公瑾……です」

 どうやら、天真爛漫な孫呉の大都督も、気性のきつい三成に怯えている様子だ。上背は、周大都督のほうがずっとあるのに、びくびくと敬語で応える。

 二人に任せていたら、いっこうに話が進みそうにないので、私も軍師の談義に参加することにした。今はなにより正確な情報を交換したかったからだ。