夜明け前
<13>
 
 
 曹 丕
 

 

 

「三成。妲己は行ったぞ」

「…………」

「三成?」

「か、かぎはかけたのか」

「……大丈夫だ、施錠した」

 私室の錠をカチンと鳴らせて、それを知らせる。

 

「……どうした、具合が悪いのか?」

 三成に声を掛ける。この問いかけは、これまでいったい何度したことだろう。

 この憂鬱で不可思議な世界に放り込まれてから、三成は常に情緒不安定だ。妙にふさぎこんでいたかと思えば、いざ策を講じるとなれば、一晩でも二晩でも徹夜をしようとする。

 そのくせ、食事の好き嫌いが多く、食べずに済ませてしまうことも多かった。

 今回もそのような感じだ。

「……孫策も周大都督も、我らの思惑どおり動いてくれるであろう。おまえが塞ぐ理由はないと思うが……」

「…………」

「湯浴みをしたのだから、気も楽になったであろう。今朝も食べなかったのだから、昼食くらいは摂れ。身体がもたぬぞ」

 そういいおいて、上掛けを取ってやった。私室に昼食の用意をさせてもかまわないのだが、彼は三日間ずっと引きこもっているのだ。他の者どもも彼を心配している。

 できることならば、元気な顔を皆に見せて欲しかった。

 

「……曹丕」

 三成が低く私の名を呼んだ。

「なんだ、どうした? 食事に行く気になったか?」

「…………」

「三成……? どうした上着を……」

 小袖とやらの上に羽織を掛けてやった。日ノ本の国の服は、立体的ではないが、我が国の織物に負けずとも劣らぬ、美しい色合いをしている。

 

 

 

 

 

 

「曹丕……」

「どうした……?」

 辛抱強く訊ねかえした。羽織を掛けてやったとき、三成の肩が小刻みに震えているのに気がついたからだ。

「どれほどの者が……」

「三成……?」

「いったい……どれほどの者が……生きているんだろう?」

 腕を通していない羽織の袖を、口元に引っ張り込んで彼は低くつぶやいた。

「どれ……ほどの者が…… この地獄のなかで……」

「三成、我らも生き残っている。そして、孫呉の者どもも……孫策にも周大都督にも逢うたであろう。彼らが集っている場所は、ここよりも開けた土地だというではないか」

 いつまでたっても腰を上げない彼のとなりに、私もあきらめて座った。こうして間近に寄ると、彼が想像以上に華奢な体格だと知れる。

 もっとも私だとて武人としてはごく平均的だと思われるし、普段から張遼だの典韋だのという輩に囲まれていては、三成が頼りなく感じるのも当然のことなのかもしれない。実際、張遼も典韋も、彼のことはまるでこわれものを扱うような丁寧さで接している。

 

「……でも……」

「あいにく我らの地には、おまえの同胞は居らなんだが、あちらには日ノ本の国のものらも集っていよう。ものごとを悪い方へ考えるな」

 肩に手を添え、含むようにそう告げた。

「……左近が……怪我をしていると言っていた」

「サコン? ああ、島左近とかいう、おまえの近侍か」

「左近は俺の参謀を勤めているが……剣の腕も確かなのだ。普通の輩には負けたりせぬ」

「……その者が手負いだとしても、必ずしも遠呂智の軍勢との戦闘で負傷したとは限らぬであろう。もとの世界からこちらへ来る途中で、負った怪我なのかもしれぬ」

 そうだ。むしろ、我ら二人がほとんど無傷であったことのほうが不思議なのかもしれない。実際、典韋は頭部に擦り傷をこさえていたし、張遼も打ち身程度の負傷はあったはずだ。

「そう……だな。そうだ。そもそも皆が無事に、この世界に到着しているとは限らん。途中で……万一……」

 カチカチという音に三成の顔を見遣る。歯の根が合わずに震えているのだ。見れば、上掛けを引っつかむ指先も、白く色が変わっているし、爪の色が紫だ。

 何かの発作……いや、極度の緊張のためらしかった。この三日間、三成はほとんど物を食べようともせず、よく眠れていないらしかった。

「そうだ……もしかしたら……清正は……ま、正則は…… 他の皆も……!」

「三成!」

 堅く強張った両の手をひとまとめにして掴み上げる。案の定、武器を持つのに向かない白い手は、指先から手首まで冷たく強張っていた。

「そ、曹丕……?」

 そのまま有無をいわさず、懐に抱き込んだ。

 かすかに頬が削げ、冷たく固まった顔……色白で整った顔を上向かせる。長いまつげの下から、色味の淡い双眸が、今はほとんど表情を無くしたままに私を見上げた。

 半開きの口に、乱暴に唇を重ねる。そのまま舌を滑り込ませ、やや性急に口腔をなぶった。