〜 午 睡 〜
〜コスタ・デル・ソル in ストライフ一家〜
<108>
  
 ヤズー
 

 

 

 

「はぁっ……はぁっ…… ここは……コスタ・デル・ソル……?」

「もちろんだよ。コスタ・デル・ソルの俺たちの家だよ」

 何を馬鹿なことを思ったが、敢えて、彼の言葉を復唱してみせる。

「……何も……悲しいことは起こっていない……」

「そのとおりだよ。昨日までとまるきり変わらない。ちょっと退屈なくらい平穏な毎日だけどね」

「…………」

「ええと、お湯を沸かしてちゃんと入ったほうがいいかな。身体、まだ冷たいままだね」

「…………」

 惚けた表情のまま、床の一点を見つめるヴィンセント。いや、彼の瞳には実際のところ、何一つ映っていないのだろう。

「……ヴィンセント?」

 ……参ったな。後遺症があるかもしれないとは聞いていないのだが。

 ヴィンセントの治療はかなり円滑に進み、問題なく完了したはずだ。むしろベッドにつながれているのは、俺のほうなのだ。

 この家に戻ってきてから、かなり元気になってくれたと安心してくれていたのに。

「……ヴィンセント、大丈夫? やっぱりちゃんと身体を温めよう?」

「……いや……だいじょう……ぶだ……」

「ダメダメ。そんな真っ青な顔をして。あなたがそんな様子じゃ、ジェネシスが救急車呼んじゃうよ」

 冗談めかしてそう言ってやると、ヴィンセントの細い身体がビクンと竦んだ。

「ジェ……ジェネシス…… ジェネシス……は?」

「え? ジェネシス? どうだろ、居間じゃないなら、中庭か、サンルームかなぁ」

「ジェネシス……」

「彼がどうかしたの、ヴィンセント?」

 青ざめた面持ちで、彼の名をつぶやくヴィンセント。その様子を不思議に思って、俺は問い返した。

 

 

 

 

 

 

「失礼、ヤズー。さっき、女神の声が聞こえたみたいなんだけど……」

 廊下の向こう側から、声が聞こえてくる。ジェネシスもヴィンセントの悲鳴を聞きつけたのだ。きっと心配で飛び込んできたいところなのだろうが、理性で配慮しているらしい。

「あ、う、うん、ちょっとね……」

 ヴィンセントを目の前になんて答えればいいのか。俺は返答に窮した。

 だが、それも一瞬のことであった。

 ヴィンセント本人が、びしょ濡れの姿のまま、ふらふらと立ち上がったのだ。

「ヴィンセント、あぶない! ダメだよ、急に動いちゃ!」

 思わず、俺はそう叫んだ。

 きっとその言葉が導火線になったのだろう。とうとう、我慢していられなくなったらしい。

 ジェネシスは、

「失敬!」

 と、謝罪を口にすると、扉を開け放ち、こちら側へ入って来た。

 

「……ッ!? ヴィンセント? どうしたんだい?」

「いや……ちょっと俺にもよくわからないんだよ。どうも普通の状態じゃなくて……」

 よろけるヴィンセントを支えながら、本人には聞こえないようにそう答えた。

「…………ッ!」

 ジェネシスが姿を現した途端、彼の細い身体がビクッと反応した。

「ジェネシス…… ジェネシス……!?」

「女神……? どうしたんだ? 具合でも……」

 真剣なジェネシスの声は、途中で強制終了させられた。

 俺の腕をすり抜けたヴィンセントが、彼に抱きついたからだ。

「め、女神? どう……」

「ジェネシス…… ジェネシス……」

 ふたりは、ずいぶんと体格が違うから、ヴィンセントがしがみつくという形ではあったが、彼はてこでも腕を放そうとはしなかった。

「女神…… 大丈夫、落ち着いて話をしてごらん」

 ジェネシスは膝立ちの格好の彼に合わせ、腰をかがめて背を抱きかかえる。もちろん、シャツもパンツもびしょびしょに濡れてしまうが、ジェネシスにとってはどうでもよいことらしかった。

 困惑した風な面持ちは、ヴィンセントへの心配からだろう。

「女神……?」

「ジェネシス……! ジェネシス……ッ!」

 ヴィンセントの細くて長い指にぐっと力が入る。関節が白くなるほど強く。

「落ち着いて……何も心配はないからね」

「ジェネシス……ジェネシス……!ああ、よかった…… こっちが……本物だ……」

「『本物』? おやおや、どこかに俺の偽物がいるのかな? 君の目の前にいる男は、まちがいなく女神の熱狂的な信奉者だよ」

 ジェネシスの軽口も通じない。ヴィンセントの様子を見ていると、何かにひどく怯えているように感じられた。