〜 子猫物語 〜
〜コスタ・デル・ソル in ストライフ一家〜
<3>
 
 ヤズー
 

 

 

 

 

 

「……ンゥ〜」

 ヴィンセントが小さくうなる。だが、自力で立ち上がることはせず、為されるがままだ。

 ……ひょっとして、本当に強く頭を打ってしまったのかもしれない。

 ぼうっとした表情で、あたりを不思議そうに見回している。

「ヴィンセント……?」

 俺と目が合うと、ほんの少しだけ首をかしげ、彼はニコ〜ッと音がしそうなほど、屈託のない笑みを浮かべた。

「うわッ」

 と、思わず声が漏れてしまうほど、衝撃的な光景であった。

 いや、おおげさに言っているわけではない。ヴィンセントに出会ってから今日まで、彼がこんなふうに笑ったところを見たことがなかったのだ。

 いつも、愁いを含んだ微笑を浮かべていたヴィンセント。

 ごくたまに、兄さんに笑わされていたところを見たことがあるが、それだとて、今の手放しの『笑顔』とはかけはなれたものだ。

「ヴィ……ヴィンセント? あの……ホント……へ、平気?」

 俺の口調が尋常ではないことに気がついたのだろう。

 ソファから一連の成り行きをただ眺めていたセフィロスも、新聞を放り投げて、のそのそとこちらへやってきた。

「なんだ、どうした。あーあ、また派手にスッ転んだもんだな」

 砕け散った食器の破片を眺めて、セフィロスが呆れたように言った。

「もう、突っ立って見てないでよ! カダ、掃除道具持ってきてくれるか? ロッズはテーブルをかたづけてくれ」

「はいはい!」

「オッケー!」

「セフィロスもぼさっとしてないで、ヴィンちゃん向こうへ連れてって! だいたいあなたがちゃんと抱いていないから……」

「あー、わかったわかった。クソうるせー小姑が」

 いつものようにブツブツと文句を言い、ころりと転がったままの子猫を抱き上げようと手を伸ばした。

「おい、チビ。しっかりしろ。どっか打ったのか? あ?」

「…………」

 小動物にはやさしいセフィロスである。小柄な子猫のようすをそっと伺うと、ようやくチビちゃんのほうも目を覚ましたようだった。

「…………」

「どうした? ヴィン?」

「…………ッ!! ……!!!」

「お、おい!」

「キュッ……にゅッ……」

「おい、暴れるな! もう大丈夫だ。だいたいおまえが魚なんぞに気を取られるからつまらん目に遇うんだぞ」

「みゅ……! ひゅ……」

「おい……? どうした、声がヘンだな? 口の中に怪我でもしたのか?」

 セフィロスが、チビ猫ちゃんをくいと持ち上げ、ワタワタと動き回る身体を検分する。

 俺の方は人間のヴィンセント相手でそっちまで手が回らない。とりあえず、彼を立たせ、傍らに椅子に腰掛けさせた。

 ……だが、まだ彼は、にっこりと……そう、まるで中身が別人と入れ替わってしまったかのように、見たこともない笑みを浮かべ大人しく座っていた。

「ヴィンセント。ねぇ、返事して? なんだか……様子が……」

 まるで人格が変わってしまったような面持ちが不安を掻き立てる。

 俺はこれまで、この家で起こった、いくつかの『不思議』を思い出していた。

(……入れ替わった……? バカバカしい。カダとロッズはいつもどおりだし、セフィロスだって彼のままだ。もちろん、俺だって……)

「……まさか、本当に頭でも打ったんじゃないだろうね……?」

「……??」

 困惑する俺を見つめ、彼はくいっと小首を傾げた。そしてまた笑う。本当に屈託のない面持ちで。

「んゅー……」

「え? な、何?ヴィンセント」

「んゅ」

「は? あ、あの……」

 俺があらためて、彼の容態を確認しようとしたときだった。

 背後で猫を抱き上げたセフィロスが深刻な声で、子猫に呼びかけていた。

「……おい? おい、しっかりしろ、チビ。どこか痛いのか?」

「セフィロス?」

「……おい、イロケムシ。……こいつ様子がおかしいぞ」

「え、ええ? なに、どうしたっていうの?」

 ヴィンセントのことで手一杯なのに、俺はつい苛ついた声を出していたが、セフィロスはそんなことなど気にも留めはしなかった。

「……どこか怪我でもしたんじゃないかと思って見ていたんだが……さっきからずっと縮こまって震えてる。今朝、こいつに何食わせた?」

「ヴィンちゃんのゴハンはまだだよ。だから鯛飯に反応したんでしょ。お腹こわしてるとかじゃないと思うんだけど……どれどれ、チビちゃん、お顔、見せて」

 俺はセフィロスの腕の中で、ぎゅっと縮こまっている小さな固まりを撫でてみた。

 子猫が顔を上げる。

 じっと俺を見つめる朱金の瞳……まるで何かを訴えるような……縋り付くような眼差し。

 さきほどまでのフワフワとした無邪気な子猫の様子には見えない。

「ヴィン……ちゃん?」

「にゅ〜……にゅ〜……」

 小さな声で、物言いたげに鳴く。

「どうしたんだろ……確かにおかしいね。いつものチビちゃんじゃないや」

「だろ」

「どっか怪我しているようにも見えないんだけど……ヴィンちゃん? どっか痛い?」

 人間に語りかけるような口調で、そう訊ねると、

「……みゅん」

 と言った。

  

 ……人間の『ヴィンセント』のほうが。

 あの、小さな……聞き取りにくい声で。

 

「え……」

 絶句する俺。

「なに……?」

 と疑問符を口にしたまま、二の句が告げなくなるセフィロス。

「ま、まさか……」

「……今、ヴィンセント、鳴かなかったか?」

「ちょっと、セフィロス、その子、見せて!」

 にこにことソファで笑っているヴィンセントをそのままに、セフィロスの腕の中で縮こまる子猫を振りかぶる。それこそ風を起こすイキオイで、だ。

 ……まさか……?

 小さな黒猫が身を固くして、俺を見つめる。

 嫌がっている様子ではなく、困惑しているような……そんな雰囲気なのだ。

「……ねぇ、まさかとは思うけど……君、『ヴィンセント』……?」

 恐る恐る俺は訊ねた。

 コクコクコクと小さな頭がくり返し頷くのを見て、本当に眩暈がしてきたのであった……